2010/11 bR06 小熊座の好句 高野ムツオ
たてよこの横は海原鰯雲 平松彌榮子
前回、「終戦日」を契機に、俳句の発想のありかたに少し触れた。俳句の言葉が、
それまでの多くの佳句によって鍛えられ、言葉の世界そのものが広がったり深まった
りするのは、何も「終戦日」に限ったことではない。掲句に接したとき、すぐ頭をよぎっ
たのは〈たてよこに富士のびている夏野かな〉という桂信子の句だ。こちらの「たてよ
こ」は富士山そのものの姿。天空高く、さらには海近くまで、( いや海の中までといっ
た方が正しいか ) 裾野を伸ばしている悠然とした富士山が想像できる。それ対し、
平松彌榮子の「たてよこ」はどう読めばよいのだろうか。横は海の広がりであるのは
自明。その上の鰯雲も同じく空一面に広がっている。では「たて」はどう読むべきか。
水平線へと続く海原のことか、空の奥へと伸びていく鰯雲のことか、そう解釈しても間
違いではないだろう。しかし、それだけではなさそうだ。「よこ」が空間の軸であるなら
「たて」は時間の軸として読むべきなのだろう。「たて」は、おそらく海原や鰯雲を見つ
め続けてきた作者の思いの軸なのだ。単なる思いつきではない。これも「海原」や「鰯
雲」といった俳句の言葉が培ってきた連想力なのだ。作者は、今、目の前に広がる景
色に、それを何度も見つめ、見上げてきた自分の来し方を重ねているのである。そ
の来し方こそ、隠されている「たて」ということになる。
プール出て水の光によりかかる 中井 洋子
この句が口寄せたのは正木ゆう子の〈螢狩うしろの闇へ寄りかかり〉。正木が寄り
かかっているのは空間、いうなれば、寄りかかれるはずのないものに寄りかかってい
る。中井が寄りかかっているのは光という視覚現象。現象とはいっても、こちらも触る
ことも固定することも不可能な得体のしれないもの。この光とは、おそらくは時間その
ものなのであろう。さっきまで泳いできた水の揺らぎ、光りのざわめき、そして、水が
もたらす胎内感覚、そうしたものすべてを包む時間が光となり、そこへ中井は寄りか
かっているのである。「寄りかかる」という言葉自体、これからもいろいろ詩的深化を
遂げそうな、そんな楽しい想像にも誘われる句だ。
星とんでわたくしはただ息をする 松岡 百恵
東京土の会で私は採らなかったが、正木ゆう子が推した。確かに「流れ星」という季
語に秘められた「はかなさ」を逆手にとった生命感にあふれている。そう思い、正木の
話に頷いていた。次の二句も、それぞれ心に残った。千田の句からは鬼房の〈何一
つ忘れはしない吾亦紅〉が、柳尾の句からは片山恭一の小説『世界の中心で愛を叫
ぶ』が思われる。
思い出を皆忘れよ赤とんぼ 千田 稲人
吾の立つここが中心鰯雲 柳尾 ミオ
|