2010/12 bR07 小熊座の好句 高野ムツオ
我が血には博徒に山師曼珠沙華 阿部宗一郎
阿部宗一郎は関東大震災があった大正十二年生まれ。個性派揃いの小熊座にあ
っても、ことに異彩を放つ。十六歳で戦地に赴き、四年六ヶ月のシベリア捕虜生活を
経験してもいる。そうした青年期に築き上げた精神性は、鬼房や六林男など大正八
年組と呼ばれた戦中派に相通ずるものといっていい。それにしても、宗一郎の八方
破れの反骨精神には、感嘆しながら時折辟易しそうになる。たぶん、それは私に、平
和な時代のみを安閑と生きてきた戦後生まれの脆弱さがあるからだろう。
しかし、掲句のような向日的開き直りに出会うと、まさに喝采を送りたくなってくる。
「博徒」に「山師」と並べながら、けっして卑下しているのでも恥じているのでもない。
むしろ、誇ってさえいるわけだ。開き直りと不用意に言ったが、これは根拠のない開
き直りではない。もともと俳句作りなどは、一か八かの天任せ。しかも名句になるなど
金塊を掘り当てるよりも難しい。現にこれまで気が遠くなるほどの数の句が生まれ出
ている。にも関わらず自分だけにしかない言葉の世界が存在すると固く信じて俳句を
作り続けるのだから、実は俳人は博徒以上の博徒、山師以上の山師というべきかも
しれない。
またの世は旅の花火師命懸 佐藤 鬼房
という句も、同じ思いから生まれたと思っている。俳諧師も、博徒や山師と同じように
諸国を流浪して歩く旅人であったことはいうを待たないであろう。この句に配合された
曼珠沙華が、流浪、疎外に相通ずるのは、「長崎物語」のじゃがたらお春、それに渡
辺白泉の〈まんじゅしゃげ昔おいらん泣きました〉など先行作品のせいだろうか。それ
もあるが、捨子花、死人花と呼ばれるこの花が、もともと異界のイメージを醸し出して
いるせいだろう。
ついでに記しておくというわけでもないのだが、たまたま名古屋に所用があって出か
けた。その折、岐阜まで足を伸ばし、岐阜城を下って公園に降りてくると「狂俳発祥之
地」という碑と出会った。そういえば名古屋は狂俳が盛んだったと今更ながら思いあ
たった。狂俳とは、いわゆる冠付け。題として出された上五に中七下五を付けるとい
う遊戯性の高い俳諧の一種で、江戸時代後期に流行った。内容は通俗的なものが
多い。しかし、庶民のエネルギーにあふれている。そうした精神を上田三四二の言葉
に倣えば「底荷」としたところにこそ現在の俳句ありとも思った。底荷としながら高い
詩性を積み上げた巨船を、これからの俳句は目指すべきなのである。
茫々と老年熱中症の夏 阿部 流水
捨てられて三四日めの猫に月 遅沢いづみ
色なき風フライドチキンの骨残り 佐藤 成之
は、そんな現在そのものが切り取られた句である。
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