2011/1 bR08 小熊座の好句 高野ムツオ
冬に入る根あがり松と濤ごろし 浜谷牧東子
根あがり松は、雨や波などで土が洗い流され根元が露わになった松のこと。ここで
は後者、波打ち際に生えている松だろう。これを地名としたところが石巻にあるが、
同様の名は全国各地にある。隆々たる根を剥き出しにしたまま、波はもとより風雪に
耐え存えるものへの畏敬の思いが、親しみとともに地名として定着させたのである。
似たようなものに走り根の松がある。京都の鞍馬山中のものが名高いが、土の下が
すぐ岩盤なので、根が土中に潜ることができず、地表をうねって這っている状態をい
う。盆栽でも同様の言葉はある。ただし、あれは鉢の中を這う太い根のことだ。いず
れにせよ、厳しい自然に生きる木のたくましい生命力を物語っている。しかも、ただひ
たすら人間の目には見えぬ動きと力で、空高く梢を広げる礎となるのである。
濤ごろしは、消波用のテトラボッドのこと。ただ、これは戦後普及してきたものだか
ら、歴史は浅い。それ以前は、おそらく自然石などを投げ込んで波を沈めたもので、
それらを含め、こう呼んできたのだろう。濤ごろしは海岸を守るためのもので、防波
堤とはまたことなる。こちらも、来る日も来る日も、波と相対し、その力をひたすら受
け止めることに徹する。
根あがり松と波殺し。その両者が、また今年も冬を迎えるという。この句は、それ以
外には何も語っていない。しかし、この荒涼毅然たる二つの存在そのものが、この世
に存在することとはどんなことであるのかを、読む者に無言のうちに問い掛けてくる。
十二月海の藻屑が立ち上る 古山のぼる
これも、同じく海の情景を詠ったもの。波とともに迫ってくるのは、海の藻屑であった
という。これは、そのまま、どこにでもありそうな冬の浜辺の情景で、そう肯い鑑賞し
ても、この句のダイナミックな波をとらえた魅力は十分伝わってくる。しかし、「海の藻
屑」は慣用表現としての意味にもこだわりたい。海で遭難した船や亡くなった乗組員
を差すのだ。つい深読みをしてしまう習性に従えば、やはり私の脳裏には十二月八
日の開戦記念日が浮かんでくる。その日を前に、はるか沖から亡くなった幾万の魂
が、まさに海の藻屑そのものとなって、怒り迫ってくるのである。
初雪のことに魔鬼山屹立す 八島 岳洋
田村麻呂に討ち取られた石巻魔鬼一族の酋長の妻、魔鬼女、その名を冠した魔
鬼山。いまは牧山という穏やかな名になっているが、初雪ともなれば、俄然かつての
威容を取り戻すという句である。雪は自然を隠すのではなく正体を露わにするのであ
る。魔鬼一族については奥浄瑠璃「田村三代記」の関連とともに、いつか調べてみた
いと思いながら手つかずじまいになっている。
手練れ三人の詩魂熾んなることを、まずは言祝ぎたい。
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