2011 VOL.27 NO.311 俳句時評
蘆 の 言 葉
大場 鬼奴多
3月11日、東北地方を中心に起きた未曾有の大地震から一夜が明けて、テレビでは太
平洋沿岸地域の壊滅的な被害の様子を伝えていた。仙台・名取・塩竈・気仙沼・石巻・東
松島・多賀城・七ケ浜……。「小熊座集」で毎号目にする地名が並んでいた。
胸がつぶれる思いがして、被害の広がりに意識が追いつけないでいた。津波で船や家屋
が流された市街地、滑走路が浸水した仙台空港、煙を上げて炎上するコンビナート、変わ
り果てた景色に涙を浮かべる住民、校庭に書かれたSOSの文字、ヘリで救助される人の
向こうに脱線した仙石線の車両、犬を抱いて孤立する家族の元に向かう被災者、軽トラッ
クの荷台に乗って移動する人たち……。
第一撃は盛岡の自宅で受けました。生まれてこの方経験したことのない、強烈な横揺れ
だった。それがあまりに長く続くので、天の悪意のようなものまで感じてしまった。
被害の甚大さばかりではなく、東北の被災者の強さと優しさも、この震災では強く印象づ
けられました。
東北は、平安時代の蝦夷の指導者アテルイの時代から、ずっと戦いに負け続けてきまし
た。戦後になっても、中央とは経済的、文化的な格差がある。そういう抑圧に耐え続けた
遺伝子が受け継がれ、この危機を耐え忍ぶ力を与えているのでしょうか。子どもから老人
まで、国内だけでなく世界を感動させるような見事な振る舞いをしている。
釜石市生まれの作家・高橋克彦氏の「オピニオン」から引いた。
朝日新聞が「東日本大震災を詠む」俳句を緊急募集したところ、たちまち約1300句をこ
える投稿が寄せられたそうだ。
みちのくの地震鎮もれよ花辛夷 大分・富尾和惠
生きていて生きてるだけで燕来る 東京・飯田 操
春月や瓦礫の町に嬰生まる 名古屋・坂倉公子
乾坤の未曾有三月十一日 横浜・藤田定雄
ものの芽の天地裂くとも萌え出でよ 埼玉・斎藤哲哉
涅槃西風海から瓦礫地獄まで 横浜・猪狩鳳保
(朝日俳壇選者の特選句から筆者抜粋)
誤解を恐れずに書けば、いま、日本中に善意の押し売りが蔓延しているように思えてな
らない。民放のテレビからは、CMの空白を埋めるためにAC広告がくり返し流された。反
復の多さもさることながら、災害の状況につながるような切実さが感じられず、金子みすゞ
の詩にもやや違和感を覚えた。「がんばろう日本」的な空疎なスローガンもリアリティが希
薄だ。
道を歩き、景色を眺める。物を手にとり、考える。そして言葉について想いを凝らす。物と
言葉とは、どのようにつながっているのだろうか。創造力は、そこにどうかかわってくるのだ
ろうか。言葉が人の中にまっすぐに入って行くのは、まず、空間の悲しみを感覚として感じ
とること。悲しみを痛切に感じたればこそ、言葉が立ち上がって、言葉そのものの力を伝え
ることができるのだろう。
祈りながら、自然災害のみならず、差別や貧困、飢餓に耐えて、1000年以上の歴史を
力強く歩み続けてきた蝦夷の、日出づる国の人々の力を思った。必ず復興できる。そう確
信した時、眼下を流れる川の春のさざなみが、私の願いに応えるようにきらりと輝いた。そ
して、その光の合間から蘆の芽らしきものが見えた。蘆は、かつて広大な干潟であったこ
の地に、はるか古代から繁茂していた植物。今も毎年、必ず生い茂る。その角組む蘆、つ
まり芽吹く蘆は、我らの祖霊の姿に重なった。
泥かぶるたびに角組み光る蘆 ムツオ
震災から十日余り、23日の読売新聞に寄稿された主宰の文章は、こう結んでいた。
人間はその存在の中心まで自然の中にある。再び生き返るために、自然にかえり、伝統
に汲むという時、それは決して形容や言葉のあやではないのであって、各々が自己の経験
の独立と独創を信じ、再びフォルムと言葉をもって各自の道を辿り直すしかないのだろう。
自然と歴史の根源に還ること。そしてそれは、前進することによってのみ実現されることな
のだろう。
気象庁は28日、東京で桜が開花したと発表した。靖国神社にある標本木に5、6輪以上
の花が咲いているのを気象台の職員が確認したという。東京の開花は平年並みで、昨年
より6日遅い。
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