「うらうらに照れる春日にひばりあがり心かなしもひとりし思へば 大伴家持」(『万葉集』
巻二十)という歌があるが、〈ひばり〉は「春うららかに照る日、はるかに空へあがるなり」
(『滑稽雑談』)というような鳥であるらしい。このあたりから〈ひばり野〉が感覚できるように
思われる。
上五の〈ひばり野に〉は「ひばり野にいて」、或いは「ひばり野というものに」と解釈できる
が、結果的には句意は同じところに辿りつく。〈父なる額〉は一元的に考えれば「父親であ
る自分の額」ということになろうか。〈額〉の筋肉は前頭を含んでいるが、多くの文化で〈額〉
に装飾、或いは宗教的な目的で印を描くことがあるようである。即ち〈額〉は人間の脳に直
結する大切な象徴的な部位であると言えよう。その〈額〉が〈うちわられた〉、ということは精
神的に大きな衝撃を受けたということである。それはまた、〈父〉としての存在を突き崩され
たということでもあろう。
〈ひばり野〉の明と中七下五の暗、二物衝撃がシンボリックな〈父〉をストイックに昇華させ
ていく。言葉のバランスが絶妙で、内容に比しむしろソフトな諧調。固有性を突き抜け〈父〉
という普遍性を〈ひばり野〉なる空間に刻印している計算されつくしたシュールな一句。シュ
ルレアリスムは「過剰なまでに現実」という意味であるが、幻想を創出させる鬼房の美学も
うかがわれる一句である。
(髙澤 晶子)
八歳の時に父を亡くした。以来、私にとって「父」という存在は、遥かな郷愁の対象となっ
てしまった。純化された思い出は、痛みを伴いながらも甘く懐かしい。
この句は俳句を始めた頃からずっと気になっていた。けれど、私にはすんなり理解し、咀
嚼するのが難しい句でもあった。
雲雀の声降る麗らかな春光の野にうち割られる額、というだけなら受け止められる。明る
さの極みの、暗く酷薄な景色。いつかどこかで、そんな映像を見たことがあるような気さえ
してくる。
「父なる額」の前に息を飲んで立ちすくんでしまうのだ。もちろんここは「母なる額」ではな
いし、父以外のどういう存在でもないことは分かるけれど。
額をうち割られた父の姿は、あたかも遠い神話の一場面を見るようだ。あるいは、大い
なる古典の無口な主人公の悲劇を見るようだ。
父とはこんなに厳しく悲痛な存在なのだろうか。こうして、額をうち割られることまでも受け
入れて在るものなのだろうか。雲雀の声が明るく美しく澄んでいればいるほど、父の姿はく
ろぐろと怖ろしい。この悲壮を、私はまだ咀嚼できないでいる。
(渡部州麻子)