2011 VOL.27 NO.312 俳句時評
とりあえず季語
矢 本 大 雪
この時評を年に三度ほど書きながら、そんな立場にもないし、時評といえるほど俳句の
現在にも詳しくないのにと思いながらも、独善的にならずもっと勉強しろという忠告は身に
染むので、こわごわと興味のあることばかり書いてきた。だから、タイムリーな話題は他の
先輩たちに任せ、今回も自分の中でまだもやもやと燻っている古くて新しい問題「季語」を
とりあげながら、考えを整理してみたい。
あえて(自分のなかでは)決着済みのこととして、これまで「季語」に言及しようと思っては
いなかったのだが、片山由美子さんの古い発言(平成八年「国文學」二月臨時増刊号「俳
句の謎」)に妙に刺激されてしまった。 「俳句にはなぜ季語が必要なのですか。季語の入
っていないものは俳句とは呼べないのでしょうか。」という設問に答える形のものであった。
【俳句は有季定型である、つまり、季語を持ち、五・七・五の十七音からなる詩であ
る】とし【俳句は独立した発句として、季語を有することでひとつの世界を確立し、単
独の詩となりえた。したがって発句の歴史を負っている俳句も、季語なくしては成立し
えない】ので無季俳句など考えられない。さらに【もう一つの理由として、無季俳句に名
句がない―有季俳句を超えることができない】としている。
みごとな信念であり、厳しい覚悟である。こんな信念の人に出会うと、面と向かって反論
する勇気は持ち合わせていない。あとでぼそぼそと「でもちょっと違うんじゃないかなあ」と
口の中で呟くのが、私の精一杯の抵抗であり、唯一の長所でもあるのだ。発句のくだりに
ついては言及しない。俳句のルーツを辿らなければ「季語」の問題は片付かないとは思っ
ていないからである。心のどこかに和歌・短歌は季語などという言葉を使用していないでは
ないか、という気持ちがある。むしろ、私の心に何かカチンと触れたとすれば、「詩」という
単語だったのだろう。
俳句を詩としてとらえることに私は大いに同調するものだ。これまでも、そしてこれからも
俳句を続けようという決意を支えているのは、俳句は詩であるというささやかな自負にほか
ならない。そして、私が信ずる「詩」とは、あくまでも自由な表現と、高邁な意思とを両輪とし
た表現方法なのだ。俳句も例外とは思っていない。結論めいたことというか、私の考えを
先ず掲げておけば、俳句は季感を湛え(称え)十七音の定型に収斂しつづける最短の詩
型、ととらえているのである。むろんこんな考え方が俳句界の主流であるわけがない。ごく
少数派であろうことも承知の上で、俳句を制約の多い詩型と考えたくはないのだ。しかも俳
句の創作者自身が、制約と感じるものを自ら(俳句)の規定として織り込むべきではないし
そうするはずもないと思いたいのである。季語を用いなければならないと、季語を(積極的
に)用いることが出来る、とでは雲泥の差がある。
自身のことで恐縮だが、私は季語が好きであり、自作も現在は(感覚としてだが)九割強
の作品は有季であり、季語の恩恵を大いに享受している。意識的に無季作品をつくってい
る記憶はないが、たまに気がついたら季語はなかったという作品が出来たりもする。私の
中には、季語を使用しなければならないという意識はないが、同時に、季語を使用しては
ならないという意識もない。だから、無季派と呼ばれることはないはずだが、無季の句に偏
見は持っていない。【無季俳句に名句がない】という考えには正直に言って衝撃を受けた。
黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ 林田紀音夫
ひとりゐて刃物のごとき昼とおもふ 藤木 清子
昭和衰へ馬の音する夕べかな 三橋 敏雄
切株があり愚直の斧があり 佐藤 鬼房
ついでに付け加えておけば、自由律の作品、特に放哉や山頭火のいくつかの作品にも
惹かれている。俳句を楽しむことに貪欲であればあるほど、これらの作品を俳句ではない
と排除することは勿体なくて出来ない。名句と呼ぶべきかどうかは、自信を持って言えない
が、私にとって大事な句であることは小声ながらも主張しておきたい。むろんこれら四句は
もっと多くの作品を代表してここに掲げただけなのだが、どこか俳句の本質を大きく逸脱し
ているだろうか。私には俳句という傘の下に、これらの作品を同時に玩味できることを誇り
としたい。
季語が便利すぎることへの不安や怖れは、どの俳人も感じていることではなかろうか。季
語が入りさえすれば俳句と呼ばれる、とは誰も信じてはいない。名句か駄句かの区別はひ
とまずおくとしても、絵ハガキのような句ばかり並べられても読み手には響かない。俳句を
作ると同時に、我々は俳句のよき読者でもある。極端に省略を重ねた俳句の詩型は、そ
の読みにも高度な技巧が要求されかねない。「座の文学」としての俳句とは、一句を通じ作
者と読み手とが文学的な交感をする具体的な空間ではなかろうか。だから作り手が便利さ
にあぐらをかいて使用した季語が、仲間に響かない(おそらく自分自身にも響いてはいない
はずだが)とすれば、言葉として生きていないのだ。
便利すぎることから、季語から発想した作品がついつい生まれることを嘆きたくなる。季
語を題として詠う習慣が身についてしまうと、句の量産は可能としても、何のために産み落
とされた句かもわからなくなってしまう。また、季語のある句が季感を湛えていると見るのも
早計に過ぎよう。繰り返し使用されることで、季語は本意・本情から離れ記号化してゆく。
他の言葉と同様に、使用にあたっては絶えず作者自身の息で磨きなおさなければならない。
俳句における季語の役割は、作者の覚悟を問う鏡なのだ。
最後に片山由美子さんのような強い主張がなければ、反撥心も生じず、季語について考
察する機会はこなかっただろう。心から感謝したい。
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