2011/5 bR12 小熊座の好句 高野ムツオ
震災の新聞もとぶ花吹雪 増田 陽一
歌舞伎や映画などのせいばかりでなしに、花吹雪は、終幕、それも何か大事があ
っての終末を連想させる。しかも、花吹雪が消えると、それまでの波乱万丈もたちま
ちにして消え失せる。花吹雪には、そんなイメージがある。軍国主義の玉砕精神が、
その印象を助長したという考えもある。この句の震災を、今回の東日本大震災と読
むのは、まだ早すぎる気がしないでもない。だが、その予見として鑑賞することは可
能だろう。幾多の犠牲者を出した未曾有の悲劇も、それを伝えた新聞も、ともに早晩
人間の記憶から消え失せるだろうという、冷やかな批評が、この句にはある。そうい
う思いを抱いたり、述べたりすることは死者や被災者に対して不謹慎という非難もあ
るだろう。しかし、私はそうは思わない。語弊を怖れずにいえば「忘れる」ということは
生きるためのかけがえない手段となる場合もあるからだ。悲しみを乗り越えるとは、
実は、そうした非情ともいえる心のありようと生死のぎりぎりのところで一体となって
いるのである。震災の悲劇に埋め尽くされた新聞も、やがては単なる紙屑となって花
びらとともに飛び消える。その事実を事実として永遠に記憶しようとする眼差しには
悲しみを本当の意味で心に刻み込もうする作者の姿勢の裏付けがあるのだ。
むきだしのあれは原子炉かぎろへる 我妻 民雄
こちらは、間違いなく今回の大地震がモチーフ。実際に見たかどうかの詮索は、こ
の際不要であろう。注目すべきは、この驚きようである。実際、何を見て驚いている
かも、よく知れない。ただ、見たこともない代物を原子炉と示され、驚愕している作者
がいるだけだ。その驚きぶりは、自分の近くに、こんなものがあったことを始めて知っ
たうろたえである。我々は何によって生かされているのか、その事実を初めて知った
うろたえと言っていい。同時に、大災害を生んだプレートやその下のマグマも実は我
々を育んでいるまぎれない大自然と知ったうろたえなのでもある。
水も無く電気も無くて風光る 関根 かな
これも震災の句かもしれない。しかし、むしろ、そうでない時の句として読んだ方が
面白いだろう。どんな時でも、いつでも春になると風は光るのだ。
末期の目海神みしか大津波 俘 夷蘭
これはシリアスな眼差しの句。津波を生んだ大自然に対する抗議の言葉の楔と言
っていい。死んでゆく人間の悲しみを海の神へ訴えているのだ。
白鯨の泳ぐがごとき雪庇かな 田中 満
メルビルの「白鯨」。とすれば雪庇を見上げる作者は、むろん船長エイハブ。確かに
場合によっては雪庇も雪崩となって人を呑み込む。
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