鬼房は掲句について新聞の文化欄で次のように語った。「これは絵画で言えば一種の超
現実派、シュールレアリズムの世界だよね。伝統の人には認められないだろうがね。夜を
走ってきたブルートレーンがスパークを放ったとき、そのとき私には何か鯨が浮かんでい
るように感じられた。どちらも大きくて重量感がある。そんなイメージ、直観をそのまま表現
したんだよ。」
鬼房の眼前には夜の闇と列車と閃光。その景に触発されて白長須鯨を思い浮かべた。
巨大な鯨が彼の潜在意識下からジャンプして現れ出た。
上質な句は、サブリミナル効果を狙った映像のように、句材の意味とは少し離れた内容
の「主張」を挟み込んでいる。その主張こそが詩性の骨格を成す。俳句形式が散文の合
理性に負けずに輝きを保っている理由は、この隠された主張の存在にある。鑑賞とは主
張探しにほかならない。
掲句では、単純に冬闇や海、また飢餓や喪失感など心理が主張に据えられていたのか
も知れないが、新聞で語った「巨大な物が浮かぶイメージ」を手掛かりにすると、宇宙に浮
かぶ天体ということになるだろう。もっと突き詰めれば、浮遊感は大地を踏む実感がなけ
れば生まれないことから、主張の正体は己を乗せている地球ということになる。掲句の後
ろにはぽっかりと地球が浮かんでいるのである。
(石母田星人)
佐藤鬼房は私は「俳句作法」の中でネオリアリズムは勿論西欧主義であるが基本的に
は芭蕉も然りと言う。アラゴンの「エルザの眼」を借りたレジスタンスあたりからシュールリ
アリズムへ入り、また新しいリアリズムに変革されて来たように思う。この辺からが私のニ
ューリアリズムの形態であると論考している。(昭和六十年現代俳句)
掲句を直視して先ず誰しもが目前に横たわる長距離寝台列車の雄渾な具象を思い浮か
べるだろう。そして衝動的に旅への誘いに駆られ、座席の一角を占める幻想に囚われる
事だろう。やがて動き出した寝台列車は漆黒の闇の中に魅せられた様に疾駆を続ける。
この一見破天荒とも思える剛直な一章直截な表意にたじろぎながらも必然的にシチエーシ
ョンの陥穽に嵌っている自分に気付くだろう。
瞬間、外気との摩擦熱でスパークを浴びた寝台列車は蒼白い光焔をあげながら反転し
一切の行為を遮断して白長須鯨に変貌する。いわゆる詩的イメージの喚起を促しながら
一切の思考を拒絶した心象投影の形であり、音響の無限な空間における現実と非現実の
狭間に存在する詩的媒介の手段としてのまぎれもない精神性構築の飛翔なのである。
この白長須鯨の実像こそ鬼房の希求するイメージの実存思想であり、シュールな写実の
表意において幻視感の内へと読者を牽引し続けるのである。
(土見敬志郎)