2011/6 №313 小熊座の好句 高野ムツオ
存命の我が骨片と牡丹雪 越高飛驒男
震災の句として鑑賞するのは、たぶん鑑賞過剰だろう。晩年を迎えた、あるいは迎
えようとしている一心境と読んで、十分ではある。しかし、まもなく二万を越すであろう
死者を出した大災害を身近にしているものにとって、やはり、これは数知れぬ死者を
念頭とした感慨の句と思うのだ。それは、たぶん、骨片へのこだわりにある。震災の
行方不明者は未だ八千人を下らないという。その多くの骨は、みなちりぢりになり、
今も海や泥の底に横たわっている。その思いが、存命の自分の骨を意識させ、いつ
か骨片となって自分も土中に横たわる日を思わせたに違いない。目の前には大地震
の日と同じように春の雪が降り続いている。
藪椿ここまで津波来しといふ 増田 陽一
津波が来たと応えたのは、俳句の読みの通例に従えば、作者の傍らに居る人であ
ろう。それは津波の被災者であるのは言うを待たない。悲嘆にくれながら、作者に訴
えているのだ。しかし、この句は、同時に藪椿が、作者にそう訴えているとも読める。
想像力をより広げることができるのは、むしろ、こちらの読み。椿は寿命が長い。木
によっては四百年以上の樹齢があるのも存在すると聞く。そこま古くなくとも、老人と
同じぐらいの年齢の椿は想像するにかたくない。新作能「花供養」では白洲正子を思
わせる椿の精が登場するそうだが、もっと土臭い老女の方が似つかわしい。聞き取
りづらい東北訛でぼそぼそと訴える。被災地気仙沼の大島も、塩竈浦戸諸島、そし
て、大森知子さんがこよなく愛した奥松島も椿が美しいところだ。
瓦礫より光りしものに春の蠅 土見敬志郎
初蝶は弔へぬ魂津波跡 小野 豊
浜辺の被災地と小動物、どちらも共通性がある。敬志郎作は錯覚を巧みに活用。
打ち上げられた瓦礫にはガラス片が多く混じっている。そのきらきら光る一つが突然
飛び立ったのだ。どんなところにも生が始まる。豊の作は鎮魂の思いが、まずあって
の発想。初蝶のめまぐるしさは、本来なら愛くるしさそのもの。だが、それすらも悲し
み彷徨う魂と受け止めざるをえない心境。日々、被災者の今後のため、懸命に働くも
のの思いでもある。
英霊の花見に父が加はれり 松岡 百恵
父は健在と読むことも可能だろうが、やはり、黄泉に向かった父であろう。戦地を共
にした戦友と久方ぶりの逢瀬を、満開の花の下で楽しんでいるのだ。その思いの深
さ。
犬釘の耳が並んで夏に入る 阿部 菁女
青麦は怖れるもののなきかたち 秋元 幸治
大波に散るを忘れて冬桜 千田 稲人
寒晴や活版が噛む一行詩 春日 石疼
投句が減少したが、作品の充実ぶりを喜びたい。
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