社会全体が暗く貧しい時代であったので、この句集だけの特徴ではないのかもしれない
が、『名もなき日夜』 の一集に通底するものは暗さ、孤独、ひもじさであろう。だが、多くの
困難や貧苦と闘い、それを詩に昇華させた鬼房が多くの苦難の末で得たものは、〈白服の
よごれや愛を疑はず〉〈寡婦そのほか祷はじまる夜の崖〉〈死ねば善人蟻一匹がつくる影〉
の愛や祈り、善であり、苛酷な現実をくぐり抜けて残ったものは心根の優しさであった。
非差別民の存在を意識することによって、今までの桜の像にさらなる光と影をもたらした
という解釈がこの句にある。納得できる理ではあるが、皮を剝ぐのは賤民に限らない。秋
田や奥会津にはまたぎや猟師がいて、このような景に出会ったことがある。鬼房が自然の
限りない愛を感じ取っていることに私は注目する。「日中」とか「桜満開」の言葉の明るさの
みではなく、労働に対する誇りや輝かしさが認められる。『名もなき日夜』の中では比較的
明るい作で、作者も三十代に入ったばかりの肉体を持っていた。
桜守の佐野藤右衛門は桜には精気もあれば妖気もあると言うが、この桜は塩竈桜や山
桜のように地霊が棲み着くに相応しい樹に違いない。地霊山霊が育てた獣や桜と感じ取っ
たときには敬虔な心にはなっても、暗さ、孤独、ひもじさは心に寄り付かないであろう。
(橋本 榮治)
句意も句の構造もなんの注釈も要しないほどに平明。ただ、思い浮かべている情景は、
読み手の年齢・経験・環境などによってかなり異なるだろう。「毛皮はぐ」は、現在ではやや
非日常的光景と映るかもしれないが、句の発表時、昭和二十五年頃には比較的身近なも
のであった。肉は食料となり、毛皮は暖房着となったに違いない。その行為は熟練した者
の手で行われ、そこから猟を生業としあるいはそれに関連した職業も思い浮かぶが、恒常
的に命を扱うことへの畏れも句には漂う。句集名『名もなき日夜』を思うとき、並びあう〈切
株があり愚直な斧があり〉との二句は内容的には対であろう。しかも、句集名を象徴する
ような生活の意味を持ってはいないだろうか。
「毛皮はぐ」光景は生きることに直結した日常である。ならばその行為は褻(け)であり、
満開の桜とは晴(はれ)に他ならない。この句を含む「凍る河」という章題のもとの二十一
句は、どの作品も非常に冒険的・意欲的な表現であり、しかもどの句にも人間の、あるい
はすべての生の日常の哀感つまり褻と、対照的にそれとは関わりない自然の表情、晴が
取り合わされている。句の構造も句意も平明に表現し、生きてあることの哀しさ・不思議さ
をみつめる鬼房の眼差しの深さを思い知らされている。
(矢本 大雪)