2011/8 №315 小熊座の好句 高野ムツオ
金蛇の死を金蛇が通り過ぐ 関根 かな
一読したときには
死蛍に照らしをかける蛍かな 永田 耕衣
が頭を掠めて、類想の危険を感じたが、あとで味読して、それは私の単なる老婆心
であったことに気づいた。耕衣の句は、あくまでも死んだ蛍と今生を謳歌している蛍と
の対比で、そのイロニーが持ち味だが、かなの句では、金蛇が通り過ぎたのは、「金
蛇の死」であって金蛇そのものではない。実際に死んだ金蛇も見えるので、なにやら
怪しい便法にも聞こえるが、ここが俳句の言葉の肝要なところ。死という、いわば、観
念そのものを、生きてある金蛇が通り過ぎたのである。そして、そう読むことによって
この死は、単に金蛇のみならず生き物すべての死を代弁し始める。人間ですら、い
や、人間であるからこそ、あまたの死の傍らを、いくども通り過ぎながら生きてあるの
ではないかとまで読めてしまうのだ。
かつて死は人間に実に身近であった。それは、このたび東京の日本近代文学館で
催された「言葉を信じる 夏」という朗読会での高橋睦郎氏のコメントから気づかされ
たことでもあった。うろ覚えの記憶のみで記すのだが、氏は「このところ死の世界が、
実に遠い世界となってしまっていたが、このたびの大震災によって、死者とのへだて
がなくなった。死者と共にある、詩の言葉もそこから発することが大切だ」といったこ
とを述べていた。確かに黄泉の世界は、つい半世紀前まで身近な世界だった。そし
て、そのことが現世という世界に生きることを、こよなく豊かにしていた。詩もまた、そ
の通りだ。これからの俳句のあり方を考えさせられた。
かなの句に戻ろう。ここには、そうした無数の死と生との一瞬の交わりの瞬間が言
い止められている。これもまた、常に死者の世界を意識する姿勢から生まれてくる言
葉の世界なのである。
青蘆を折れど雷光みあたらず 矢本 大雪
前句とは、まったく違った感覚世界。こうした切れ味鋭い感性は、しかし、天性のも
のではない。日常いかに自らを取り巻く世界を見つめ、いかに想像力をもって対峙し
ているかということだろう。この句は、夜ごと光る稲妻の行方を考え、日ごときらめく
青蘆の不可思議なさまにとらわれ止まない詩人としての眼差しがなければ、とらえ得
ない世界である。雷光は、そこになかったのではない。昨夜まで間違いなくあったは
ずだと作者は信じているのである。
梅雨晴の白雲薩埵王子かな 佐藤 レイ
薩埵は「命あるものすべて」薩埵童子は釈迦の前身、飢えた虎に身を捧げた話は
有名。この句も、未曾有の悲劇の直後ゆえ生まれたものだろう。
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