2011 VOL.27 NO.316 俳句時評
座と俳句
矢本 大雪
一句が生まれる、あるいは一句を生み出す背景を考えてみた。俳句作家たるもの、常在
戦場の覚悟で、どの一瞬にも一句を紡ぎ出す努力を惜しんでいないとは思うが、多くの人
は、結社の投句締切の直前と、毎月の句会の直前が主な作句シーンであろうか。その他
に吟行句会に参加したときなどは現場で何句か生まれてくれる。私を筆頭に、怠け者の平
均の姿はこんなものだろう。俳句誌の主宰や編集長クラスになると、商業誌やさまざまな
雑誌から作品掲載を依頼される機会も多いだろう。それを別にすれば、我々の俳句作品
の居場所は結社やグループといった、いわゆる「座」と切り離すことは出来ないのかもしれ
ない。多くの俳人にとっては改めて言われたくもないことであろうが、現代に於ける「座」を
私なりに再考してみたい。
「座」という言葉自体には、たとえば芭蕉を囲む弟子たちとの句会が具体的にイメージさ
れる。師匠の作品はもちろんのこと、発する一言一句を聞き逃すまいと緊張のみなぎる句
会は「座」と呼ぶにふさわしい文学精神の交感の場であろう。但し、指導者がその場の超
越者的な立場で同席しているわけではない。あくまで「座」を形成する一員として大きな影
響力を発揮しながらも、同時に影響される立場でもあり、芭蕉も例外ではなかったようだ。
句会は出席者の顔触れと句会がかもしだす雰囲気に大きく左右される。生まれた一句は
常によりよき理解者をもとめているのだが、直接の評者とめぐり逢うのは句会がいちばん
手っ取り早い。しかし、どんな句会も同じというわけではない。主宰が同席している場合、
その主宰の力量に絶対的信頼を置いているのなら、作品は最高の理解者である作者自
身の他に、望みうる最高の読み手を得たといえよう。もちろん、作品に高評価を下すのか
辛辣な批判がなされるのか、または無視されるのか、どの設定であろうとも、信頼に基づく
かぎり自分の俳句観、作句修業にはプラス以外の何ものでもなかろう。句会の互選で思い
がけない多くの支持をもらったときなど、つい有頂天になりたい気持ちが抑えきれないが、
その推薦者の中に自分が認めている句の読みの巧者、俳句観のぬきんでている人がい
ない場合は、逆に戒めとなる。句会の功罪のうち負の部分で、多数に迎合する句でしかな
いのかもしれないと、悔やまれることもあるのである。支持の多寡は直接句の評価に結び
つかない。
「座」としての句会は、言葉として表現された部分とともに、沈黙(描かれていない部分)・
省略を味わいあう互いの文学的資質を確認する場でもある。俳句作品は読まれることを
欲している。だが、どんな句会でもいいと思っているわけではない。つよい信念の下に、俳
句はこうであらねばならないと指導するリーダーの理論に心から感銘している場合は、そ
こが最高の居場所になる。しかし、もしその場に居合わせることに疑問を抱いたり、辛くな
ったときは別のグループに可能性を見出したくなるのも当然だろう。句会には物理的に参
加できず、投句によって結社機関誌に参加している場合は、「座」とは機関誌を含む結社
全体のことである。結社の居心地が良すぎると、本来文学者は独立自尊であるべきことを
弁えつつも、同志的結合を仲間に求めてしまうのかもしれない。逆により居心地のよい居
場所を次々と探し始めるとき、俳句作品は自らがどこに向かって書かれているのかを自問
することにもなる。詩や小説の場合とは異なり、俳句の読み手は俳句作家に限られる。俳
句の居場所とはあくまでも閉ざされた俳句界の中にしかない。俳句が詠まれ、読まれる環
境とは実に他の文学とは一線を画しているのだ。その環境そのものが即ち「座」なのだと
思う。
尾形仂氏の『座の文学』(講談社学術文庫)によれば、蕉風俳諧を例にとりながら 「そう
した連衆と対座し、合作文芸としての連句の制作に参与する中で、もしくはそれに付随して
兼題・探題の発句を競作しあう中で、互いの詩心を確かめ交響を奏でる。それをかりに一
次的な座と名づけるならば、先に江戸蕉門と美濃・尾張連衆との―中略―空間を隔てて文
芸的な精神共同体がかたちづくられている場合、これをいわば二次的な座と呼ぶこともで
きるであろう」の二次的な座として結社(あるいは機関誌)を思い浮かべることができる。尾
形氏の「座」とは、まだ更なる広がりを持つ。たとえば杜甫・蘇東坡をはじめとする中国の
詩人たちや、西行・宗祇などの時間を隔てた古人との詩心の交響すらも精神連帯の場とし
て「座」をなすのだと広義的に考えている。「一次・二次の座が共時的、空間的座であるな
らば、これは通時的、歴史的座ということになる。」 俳句における「座」とは、結社の範囲
にとどまらず、俳句界全体、更に俳句史をも含めた俳句の情況すべてといえる。俳句に携
わるもののいわばギルド的結束や、一句の読みの修練・深化が俳句を守り育てている。も
し外国でも俳句を流布させようと企てるのならば、まずその国独自の俳句界を創り上げる
方が簡単だろう。しかし、俳句がいっさい内向きでしかなく、閉ざされた環境のなかだけでし
か読まれず、他には通用しないとしたら、それは遠からず滅びるしかないだろう。確かに俳
句の作者と読み手の間には、以心伝心ともいうべき精神の交感が不可欠かもしれない。
句は最高の読み手(感受性)を想定し、沈黙部の比重は大きくなるだろう。読み手は俳句
が培ってきた長い時間の集積のなかから、熟練工にも似た読みを試みることだろう。しか
し、その読みに甘え文学本来の詩心を失ったとき、俳句の表現は俳句界にしか通じない符
牒でしかなくなる。そうならないためには、より客観的で厳しい批評の目を受け入れる覚悟
が必要だ。すべての人に理解してもらおうなどと言っているのではない。「座」の凄さを認め
つつ「座」を超えるべきなのだ、俳句は。そう考えれば、かつての桑原武夫氏の「第二芸術
論」とは、親切な俳句への忠告であったのだろう。
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