KaoKao。一羽の鶴が、頸く、しなやかに直立する。そして哭く。鳥が巣に住むという「栖」
の字を当てられていることは、鶴が現実のものというより、作者の心の内奥で育まれた、
心象風景の一部であることを暗示していよう。ローマ字表記のK音の硬質な響きが、きりり
として清冽な存在の在りかを、韻律の上でも伝えているようだ。
はたして、作者がそこまで胸の奥底に秘めていた「鶴」とは何の象徴か。それは、極限ま
でに純化された思惟のかたちを示しているのではないだろうか。掲句と同じころ詠まれた
作品に「極北へ一歩思惟像たらんとす」があるが、たとえば、この思惟の像こそが、鶴とい
う鳥のフォルムを持つものと考えられるのだ。「鶴」は、まさしく、作者の分身のような存在
ではないだろうか。ほっそりとしていて、眼光の鋭い文学青年の姿。そこには、若いころに
ロシア文学に傾倒していたという北方のロマンチシズムも感じられるようだ。「ソーニヤの
燈地の涯に吾がまなぶたに」。
「鬼房は彼の詩仲間と遠く離れてゐて、極北の風と濁流に独り立つ」とは、句集『句もな
き日夜』に西東三鬼が寄せた跋文の一節だ。濁流の世であるからこそ、青年の純潔な思
惟は、胸ふかく秘めるほかはない。孤独であるほかにないだろう。しかしながら、それは、
高い矜恃をもつ一羽の鶴として、いまも聳え立つのだ。KaoKaoと。
(田中 亜美)
昭和二十五年、三十一歳の作品という。
あるいきさつがあって、その思いとして書きとめたものに「私にとって、現実さえが、いつ
も遠い思いの中にあるもののようだ。その思いが詩を書かせるのだろうか。」(「蕗の薹」よ
り)という記述があり、空疎感に苛まれた心情を吐露している。掲句はこの二年後ころの作
となるのだが、この時の翳を揺曳しているとは言い難いが、鑑賞するにあたって拠り所と
なる一文となった。
鶴を、そのイメージとしての優美や典雅に囚われず絶対的な対象として、すなわち魂とし
て胸中に存在させている。空想の世界でありながら、背信の無いもうひとつの現実世界と
して、理想郷のように現出してくる。また注目すべきは、句中のローマ字表記である。鶴の
鳴き声を実際に聞いた記憶はないが、ガオガオに近いように思う。しかし、このオノマトペ
「Kao Kao」は、単なる擬声語を超えて擬態語として働いている。カナ文字では表現できな
い清澄感が北方の空を思わせ、それに語感の響きに哀しみが籠っているように聞こえる。
良し悪しに拘らず現実を現実として享受できない不確実さへの裏返しとして存在する一
句と思う。厳しい生活環境の時期の句であるが、冒頭の思いはずっと消えることなく、鬼房
俳句の錘となっているのではなかろうか。
(中井 洋子)