雁・鴨・白鳥・鶫など春になり北方の繁殖地に戻っていく。飛び立つのは夜が多いようで
外敵から身を守る知恵である。北方の地を見ずして死んでしまう鳥もいるであろう。いかな
る理由かは分からないが残っている鳥もいる。春の嵐で荒れ狂っていた海も今日は晴れ
て、やさしく鳥を見送っている。群れて飛んでいる鳥ではなく、一羽の鳥が浮かんできた。
無辺とはひろびろと果てしないこと。ただただ果てしなく広がる光を鳥がただひたすらに追
っているのだ。鳥自身光となって光を追っているようなそんな景が浮かんでくる。まさに光
だけの句、省略の極みである。光の奥には空があり海がある。夜ならば月明かりが波を
照らしているのみである。しかしその一羽の鳥は、現実的な光だけではなく、無辺の光も
追っている。無辺光は、全世界を照らす阿弥陀仏の光であり、その光は、比岸から彼岸へ
飛翔する。作者自身と鳥とが重なる。限りなくさみしい光ながら、あたたかいひかりを感じ
る。観賞が少し逸れるが、今年は鳥帰る頃、東日本を大きな地震が襲った。想定外の大
津波が幾万の人をのみ込み、未だ八千人以上の人たちが見つかっていない。過去の光も
未来の光も一瞬に奪われた人たち、言葉を失ってしまう。鳥には帰る所はあるが成仏でき
ぬ魂はどこに帰るのだろう。無辺の光を追っているのだろうか。
(掛井 広通)
鳥帰るから導かれた鬼房の句を通して、この一句に結晶していった鬼房の感動を思わ
ずにはいられない。無数の言葉の中から選ばれた「無辺の光」こそ、類なく静かで安らか
なものであり、逃れがたい明日の運命そのものなのだ。禅は瞑目して、長い時間、無言、
不動で坐る。そして無念無想の境に入る。万物が自在に通う空、無涯無辺、無尽蔵の心
の宇宙だ。
一句を写実的発想のものと考えられないことはない。しかし「無辺の光追ひながら」と把
握した鬼房の目が、切々と迫ってくるように感じられてならない。「無辺の光追ひながら」北
方へ帰る鳥がそのまま鬼房である。この新しい出発が、私を惹きつけて止まない。そこに
生きることのかなしさを見つめる鬼房がいる。仏教では、ものに心がとらわれてはならない
という実践倫理を説いている。すべてのもののあり方が空であるから、いま形あるものにし
がみつき、念願、希望、予想をもって執着しても、いずれ裏切られてしまう。ゆえに執着す
る観念を捨て去れと教える。
何百という大群となって高空を飛翔してゆく鳥たちも、おのれの行く末の究極の孤独を見
据えつつ、やがては北空に忽然と消える。流れる時間を断ち切ったその瞬間の断面を突
き出してくるのが俳句という詩形だとすれば、鬼房もそこに自分を確かめ生きる道を求め
ていたのかもしれない。
(大場鬼奴多)