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 小熊座・月刊 
  


   2012 VOL.28  NO.320   俳句時評



          芭蕉、遁走す

                               矢本 大雪

  岩波文庫の『芭蕉俳句集』を久々に読み進めていた。1662年(寛文二年)19歳での現

 存する一句から読め
ども読めども作品が私には面白くない。見覚えのある作品は何句か

 あったが、117番(年代順の作品上に番号がふっ
てある)の「枯枝に烏のとまりたるや秋

 の暮」(1680年・
延宝八年、37歳)の句に出会って正直ホッとした。この句にしても、それ

 までの句とは多少趣を異にはしている
が、特別すばらしいと思ったわけではない。読み進

 めて、
171番の「奈良七重七堂伽藍八重ざくら」(1684年・貞享元年、41歳)のあたりか

 ら次々と見知っているだ
けではなく、さすが芭蕉と感心・感動させられる作品が連続し、ず

 しりとした読み応えに満足した。

  さて、ここで時評のことが頭をよぎる。多くの俳人たちは知っているはずだ。十代あるい

 は二十代から俳句にいそ
しんできた若者の上達の早さを。瞬く間に才能を開花させて俳句

 界を駆け抜けるスピード感を。たとえば、セレクション俳人シリーズ(邑書林)の『新撰21
』で

 とりあげら
れた若い俳人たち。むろん様々なハードルを飛び越えてきた才能ある若い俳人

 の、ごく一部に過ぎないのではあろう
が、彼らの作品には若い感性のみが見ている可能性

 に満ち
た表現が横溢している。

    月光の糸をほどいてひとりかな        越智 友亮

    あぢさゐはすべて残像ではないか      山口優夢

    シルゝ紀を来て雨具屋のうすみどり     外山 一機

  みな、現在二十代の精鋭たちである。ここでその作品について細かに言及するつもりは

 ない。しかし、おのずと匂
い立つ若々しい表現は、うらやましいほどに可能性にあふれてい

 る。一般的にではあるが、特別並外れた才能に恵ま
れてはいなくても、若さとはなんの根

 拠もなく自らの力を
恃む自信と、周りの全てを敵視できるような生意気さを振りまいて闊歩

 するのだが、若き芭蕉にはそれが感じられな
い。少なくとも突出している印象はない。時は

 談林派が
貞門派にとって変わろうというほど台頭した時代。その俳諧の渦中にすでに身を

 投じてしまった芭蕉が、東下したと
伝えられるのが29歳のころ(32歳の説もある)。それ

 以後、芭蕉は江戸に軸足を置いて俳諧の宗匠を目指す。
そして36歳の頃には宗匠として

 立机していたらしい。
つまりいちばん油の乗り切った頃である。その当時の俳諧は少なくと

 も、現在の俳句が目指している地平とは異なる
ものを見ていたのだろう。山崎宗鑑以後の

 貞門派・談林派・
蕉門派などが支えてきた俳諧とは、確かに我々が楽しんでいる俳句のル

 ーツではある。しかし、現在とはまったく別
な規範・約束事を前提に成立した形式(一句独

 立は必ずし
も念頭にない)ではなかろうか。その時代を尾形仂氏の言葉(「芭蕉ハンドブッ

 ク」第一部、三省堂)で語れば・・・

   俳諧史を鳥瞰すると、天和・貞享から元禄初年の間は、談林誹諧崩壊後の中央俳壇

  の低迷期にあたっている。〈中略〉そのいわば俳壇ナベ底時代ともいうべき時期に、少な

  い点数の中でも中央都市に代わる地方俳書の擡頭が目につく。もう一つ、この間は俳壇

  全般に談林誹諧の滑稽から漢詩文調を経て、平明な〝景気〞の句(叙景句)へと向かう

  俳風の大きな転換期に当ってもいた。とすれば、この時期に行われた芭蕉の旅は、一つ

  には地方俳壇の開拓という、俳諧師としての実利的意味を伴っていたともいえる。

 という風に解説されると、非常に状況に敏感で野心家の芭蕉像が見えてくる。しかし、四十

 代からの明らかな作品
の変化は説明しきれない。時勢に乗って書かれていたのだろうか、

 芭蕉の句は。


  延宝八年(1680年、37歳)、まだ桃青と号し、杉風・嵐雪・其角らのそうそうたる門弟を

 擁し、俳壇的地歩を確
立したはずの芭蕉は、その冬、突如深川に隠棲する。原因はいくつ

 か考えられている。物理的には火事に遭ったこと
が大きな要因ではあろう。だが、それは

 契機に過ぎない。
俳壇の人間的軋轢から逃げたと私は感じている。芭蕉には逃走癖があ

 るのだ。故郷伊賀での芭蕉にも、どこか若者の
気負いと同時に、安住(安定)そのものに

 馴染まない精神
的な放浪性が見られる。功名を嫌ったわけではなく、むしろそれを願う一

 方で、安定に向かう環境(身分)に吾を忘
れて熱中できるわけでもなく、一匹狼として既成

 の世界に
咬みつくほどの積極性も持ち合わせない。居心地が悪くなると、逃げ出すのであ

 る。しがらみも含めた自由の束縛に芭
蕉はついつい本能的に反応するのではないか。深

 川に居を移したことが、芭蕉に自由であることへの欲求を思い出させた。そして、その精神

 の解放に具体的方向性をあたえた
のが、〈旅〉であった。貞享元年八月(1684、41歳)

 の『野ざらし紀行』の旅にはじまる五十一歳で亡くなるまでのひっきりなしの旅は、芭蕉の

 創作にとって欠かすこと
の出来ない自由な空気であったのだ。付合のために約束事でが

 んじがらめになった俳諧は、芭蕉にとって居心地が悪
かったはずだが、それを打ち壊すこ

 とではなく、芭蕉はひ
とり遁走した。自由詩人としての資質に恵まれながら、芭蕉の詩心を

 がんじがらめにしてきた俳諧というルールから
解放され、〈旅〉の中でなら死ぬことさえ快感

 でさえあっ
たはずだ。こっそりそこを離れながら、芭蕉は孤独を手に入れる。遁走だと見れ

 ば、組織にも門弟にも恬淡とした芭
蕉の行動に納得が出来る。多くのものに恵まれ利用し

 なが
ら、孤高のいや孤独な詩心に殉ずることが出来たのは、良く言えば自由で無執着な、

 芭蕉の遁走癖ではないか。その
意味で、芭蕉は根っからの放浪詩人なのかもしれない。

  現代俳句の一見自由そうな空気感は、我々に俳句という形式への反撥も、ましてや遁走

 の必要性も感じさせない。
俳句界にいま芭蕉が生まれないことは、現在の俳句が幸せ

 状況にあると言えるのだろうか。





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