2012 VOL.28 NO.321 俳句時評
惟然を想う
渡辺 誠一郎
昨年、伊賀上野への旅で初時雨にあった。
芭蕉の生家の屋根を打つ時雨の音は、感慨深さも格別であった。その後、大津に足を
運んだ。東日本大震災、そして原発事故のことが、心の底に淀んだままだであったが、澄
み切った冬空の下に淡海が青々と拡がり、清々しい気持ちにさせてくれた。
しかし、石山寺に向かうタクシーの運転手が、毎年宮城から米を買ってもらっていたが、
原発の事故の事もあり、今年は迷っていること。地域の水源である琵琶湖と福井の原発
群の近さが気がかりであることなどに話が及び、東日本の「やまい」が日本列島全体に拡
がっているのを感じた。
夜宿に入り、一人持参した筆と墨で、芭蕉が伊賀や大津で認めた『幻住庵記』などを、書
写して遊んだ。
十一月十二日、大津の義仲寺では芭蕉忌・時雨会が執り行われた。ここで、沢木美子氏
に再開した。小熊座の同人であり、広瀬惟然研究家で知られる。沢木氏は、長い間、岐阜
県関市にある惟然ゆかりの弁慶庵の庵主を務めた。
当日は、芭蕉忌・時雨会の法要の席で「風羅念仏踊り」が半世紀ぶりに奉納された。この
踊りは、義仲寺無名庵の代々の庵主によって伝えられてきたが、長い間廃れてしまってい
た。この廃れた風羅念仏踊りを沢木氏が苦労の末にこの度半世紀ぶりに復元したのだ。
踊り手は、茶人頭巾を被り、手に扇子を持ち、腰に瓢箪を付けた格好で、和琴や三味線
の音に合わせて輪になって踊る。この日は男女五人の踊り手が、本堂の芭蕉の位牌の前
で風羅念仏踊りを披露した。哀愁を帯びた調子に、ゆったりとした踊り。時空を超えて惟然
が躍り出てくるような幻想を覚えた。
風羅念仏踊りの復元までの足取りや惟然の世界については、沢木美子氏の『風羅念仏
にさすらう 口語俳句の祖 惟然坊評伝』(翰林書房)に詳しい。沢木氏の著作を傍らに置
いて、改めて惟然の世界に触れてみた。
風羅念仏とは、芭蕉の菩提を弔うために、弟子の惟然の踊念仏である。風羅の言葉は、
『笈の小文』に「風羅坊芭蕉桃青」とあり、芭蕉の俳号による。惟然は芭蕉の発句を唱えて
踊る、この風羅念仏踊りをしながら各地を巡ったという。この念仏踊りは、芭蕉ただ一人の
ためだけに捧げられたものである点が特徴といわれる。惟然の師芭蕉への追慕の気持の
深さとともに、惟然の世界の特異さを表している。
よく知られる踊り念仏は、一遍上人の「踊躍念仏」である。この踊りは、太鼓や鉦
を打ち、念仏や和讃を唱えながら踊る。惟然の風羅念仏踊りは、歌詞にすべて芭蕉の発
句を取り入れる。内容は次の通りだが、初めの句章にある、椎の木の句は、芭蕉が大津
で認めた『幻住庵記』の末尾に置かれた作品である。
先ずたのむ椎の木もあり夏木立 なもうだなもうだ
音はあられか桧木笠 〃
折れてかなしき桑の杖 〃
雪ちるや穂屋の芒のかり残し 〃
友を今宵の月の客 〃
雪の袋や投頭巾 〃
以下合わせて六章句仕立てになっている。
「なもうだなもうだ」は「南無阿弥陀仏」のこと。
ところで、惟然は美濃の国、関の人。後に『惟然坊句集』を編んだ曙庵秋挙の序に、「或
日庭前の梅花時ならずして鳥の羽風に落散るを感動せしより、しきりに隠遁のこころざし
起こりてやまず、」と妻子を捨て出家したことが知られる。
芭蕉最後の旅に従い、最期を看取る。その後は、乞食同然の姿で、古瓢箪を打ち鳴らし
風羅念仏を踊りながら諸国を行脚するのだ。
同時にこれ以後、惟然の句の世界は口語調を一層強めていく。
きりぎりすさあとらまえたはあとんだ 惟然
のらくらとたゞのらくらとやれよ春 惟然
梅の花赤いは赤いはあかひわさ 惟然
水鳥やむかふの岸へつういつうい 惟然
沢木氏は、惟然の口語俳諧が歌舞伎役者に大きな影響を与えたことを指摘している。役
者にとって、口語俳諧が、「せりふ回し」に大いに役に立ったからという理由だ。同時に惟
然が諸国を回って、「お国言葉」の、いわゆる生の言霊の力に影響を受けたとの見方も興
味深い。このことは、俗語なども好んで表現に取り入れるなど、飄逸な惟然の資質のよる
ところが大きいのかも知れないと。この風羅念仏は、姫路、尾張、京都、山形にも伝わった
とされる。
惟然の口語俳諧と風羅念仏との関係を考えると、俳諧の口語のリズムが、そのまま自然
に、所作の表現まで昇華された姿が念仏踊りのように思われる。
惟然の句、その言葉が「たましい」の一つのかたちだとすると、「風羅念仏踊り」もたまし
いのかたちである。それが夢幻の中で新たなたましいのかたちとなったのが、惟然の風羅
念仏の世界であったと言えよう。言葉を換えれば、言葉の表現そのものが、「身体言語」化
していったというべきだろう。その場合、惟然のたましいは、芭蕉のたましいとの交感を通
して昇華されていく。それは、風羅念仏踊りが、何よりも、唯一師芭蕉のためだけのもので
あったからだ。まさに惟然のたましいの踊りとしての風羅念仏踊りであった。その意味で、
惟然は、誰よりも違う境地に立っていたのだと思われる。
惟然が他と違って特別なのは、資質はもちろんのこと、芭蕉追善への思いの深さが、魂
の底から突き上げように湧き上がるものがあったからであろう。その想いを受け止め、口
語俳諧に、そして念仏踊りという所作に及ぶ。言葉の揺れ、たましいの揺れは、身体との
共振れに及んだのだ。義仲寺で踊りを目の当たりにして、そんなことを想った。
惟然の没年は定かではないらしいが、宝永八年二月九日とされる。故郷美濃にあり、病
吟として残したとされる次の句からは、惟然の漂泊への強い思いが偲ばれる。まさに最後
まで風狂の人であった。
としの雲故郷に居てもものぞ旅
戒名は〈安心唯然居士〉。
ところで、惟然は元禄十年、芭蕉とは逆順路で『おくのほそ道』の旅に出ている。まさに乞
食行脚であったようだ。
そして、平成の時代にあって今私は、東日本大震災の被災地東北の地に、惟然が風羅
念仏を踊りながら流離う姿を幻想している。
|