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 小熊座・月刊 
  


   鬼房の秀作を読む (17)      2012.vol.28 no.321



          北冥ニ魚アリ盲ヒ死齢越ユ              鬼房

                                        『枯峠』(平成十年刊)

  出だしは荘子を踏まえている。《北冥に魚有り、其の名(コン)と為す。鯤の大いなる

 其の幾千里なるを知らず。化
して鳥と為る。其の名を(ホウ)と為す》と続く。カタカナ書き

 も漢文訓読上の習慣を踏まえたものと一応は取れる。

  「北冥」は北方の大海。「鯤」は本来単なる魚卵を指すが空想上の巨魚の名へと転用さ

 れ、時が来て変身すると鵬と
いう鳥となる。いずれにしてもその巨大さは想像を絶する。鯤

 の寿命は詳らかにしないが「盲ヒ死齢越ユ」とは鵬
に変身することもなく、巨魚のままに老

 い衰えた姿か。

  本来は万物のスケールを相対化し、世界をひとつの流体のごときものとなすために持ち

 出された寓喩であったはず
だが、句においてはそのダイナミズムは失われ、巨魚は孤

 と自恃のうちに膠着したまま、その身の巨大さを持て余
している。無論鬼房の自己像が投

 影されているのだろう。
死ぬべき齢を過ぎながら、万物斉同の想像的調和へとダイナミッ

 クに巻き込まれてゆくこともなく、暗黒にして酷寒
の水中に、ただ自己意識のみをたたえ続

 ける雄大な魚体。
そのようなものを創造し、己の分身として共感を示すことで、孤心は孤心

 のままにして、ある慰藉と解放に至ること
ができる。スケールの巨大さと距離の遠さは、頑

 迷なまで
に自己意識に固執したまま、同時に己の枠から解放されるという矛盾した要請が

 必然的に引き起こした事態なのだ。

                                          (関  悦史)



  魚には、瞼が無い。それゆえ、目をつむる事は出来ない。眠る時も、夢見る時も、焼き魚

 となって人間に食べられる
時も、その眼は開かれたままである。

  「荘子」三十三編のうち第一篇は逍遥遊編である。

 
― 北の冥い海に魚がいる、その名を鯤という。鯤の大きさは何千里あるか知れない。そ

  れが姿を変えて鳥になると、その名を鵬という。鵬の背丈は、これまた幾千里あるか知
  
  れないほど。羽ばたいて飛ぶと、その広げた翼は天空一面にたれこめた雲のよう。この

  鳥は、海が荒れ狂うとき南の冥い海へ行こうとする。南の冥い海は、天の池である。―

  二〇一一年三月十一日、北の海から、鵬は天の池へと飛び立ったのであろうか。決して

 瞳を閉じる事なく。その
目には何が映っていたのか、何も映っていなかったのか。

  暗闇の中でこそ見える事実があるという。盲人は、優れた聴力をもつときいた事もある。

 失われたからこそ、失っ
たからこそ超えていける何かがあるのだろうか。

  鬼房先生の私にとっての最後の句会は、二〇〇一年春の塩竈句会であった。その時の

 私の、「墓裏に春の魚を置い
てくる」という句を、先生は、大笑いした、と微笑なさりながら

 とって下さった。

  あの春の魚も、今何処にいるのだろう。瞼を閉じられぬまま、何を見ているのだろう。  

                                              (水月 りの)




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