2012 VOL.28 NO.322 俳句時評
大震災一年目が過ぎ、あらためて思うこと
渡 辺 誠一郎
三月十一日以来、表現の立つところがなかなか見えない。
社会経済の混迷に、自然と人の手による爆発的なエネルギーの噴出が幾重にも重なり、
言葉はおろおろするばかり。まさに自らの存在をも包み込んだ現実への怯えが闇の中で
深まるばかりだ。
闇の色も炎の色も新しい 心を知って歩む世界は 東 直子
叱られて涙出づるはなにゆゑといとけなきは問ふ優しかれよ科学「東洋の秋」
島田 修三
新米を握りこぼしぬ新米に 小澤 實
新しき心抱きて去年今年 稲畑 汀子
掲載の短歌と俳句は、「震災を経て訪れた初春に、どんな思いを託すのか。」と題して一
月の「河北新報」に掲載されたもの。四人は作品の他、それぞれ短い文章も寄せている。
歌人の東直子は、先の大津波で母を失った児童の作文に偶然出会う。見つからない母
を探し続けるというこの児童の作文を読むことで、その気持ちに添い共有できることの大
切さを述べている。「この世界で生きている誰かの気持を知ることは、この世界に何が必
要かを知ることでもあると思うのだ。なるたけたくさんの気持を多くの人が共有することが
できれば、今自分がすべきことについてもだんだん分かってくるのではないか、」と。そして
「言葉を放つ。言葉を受け取る。言葉を返す。」ことが大切と。
そこには他者の「心」に踏み込まず、あくまでも他者との距離感を大切にする姿勢だ。そ
れゆえ〈心を知って歩む世界〉が共有され、〈闇の色も炎の色も新しい〉世界を希求するこ
とができるのだ。
同じ歌人の島田修三は、「夏休み子ども科学相談室」の子どもの相談を取り上げながら
現代科学、あるいは科学者への「メッセージ」を詠う。両親に叱られるとなぜ涙があふれる
のか、との子どもの問いに対して、専門家は、「泣くこと・涙を流すことの感情の浄化の働き
を」説き、悲しい時や辛い時にはうんと泣くべきと回答した話に感心する。
科学は複雑な体系や法則からなる。しかし、それを知る科学者には、「知の独占者」では
なく、「複雑系を易しく明快なことばで説き、その可能性や危険性をも含めた全体を、同じ
弱い人間として共有しようとする柔らかで謙虚な感情を忘れないでほしい。」と述べる。同
時にわれわれ自身が、科学の世界を知る努めがあると。島田は東京電力福島第一原発
事故を念頭に置いている。
科学や学問の話にもなるが、小生が大学時代、統計学の教授が、高等数学で分析する
を、いかに「算数」で説明できないか常に考えていると、話をしてくれたことを思いだした。
島田の〈やさしかれよ科学〉との願いは、先に掲げた東直子が述べた、他者と心を「共有
する」ことに繋がっている話だ。
俳人の小澤實は、先の大地震、大津波によって引き起こされ福島の原発事故によって、
俳句は大きな影響を受けたと述べる。原発事故によって空気中に放出された大量の放射
能によって俳句における「季語のもつ意味が、変わってしまったのだ。」と。
飯田龍太の〈新米といふよろこびのかすかなり〉を引いて、原発事故後、新米という季語
からはもはや「無垢」な喜び、「幸福感」は「喪失」してしまったという。季語というわが国の
詩歌の長い歴史の中で培われてきた言葉から、まさに「本意」が失われてしまった。しかし
小澤は、それでも変質した「新米」を使うことで、「被災地の農家の方々の悲しみ、またあえ
て伝統的な幸福感の表出、作者によってさまざまな詠みがあるだろう。使うことが知ること
につながる。使うことは、目をそらさないことである。ことばに宿る思いを、より深く知ること
にもなる。」と結ぶ。まさに同じ時代を、ともにわれわれが「共有」することだ。
小澤の詠う、セシウムの降り注いだ世界の後で、新米を握って新米にこぼれ落ちる光景
は、悲しくも複雑な現実となって、われわれの前に差し出されている。
やはり俳人の稲畑汀子は、今回の災害によって、「人間の知が試された」として、「自然
に対する畏敬の念」を取り戻すべきと説く。「自然は恐ろしい半面、私たちに喜びや慰めを
与えてくれる。自然は優しく美しい。」と。昔から日本人はそのように考えてきた。そのこと
は、新年の「仕事始」「初売」「初日」「初明り」などの季語に込められた日本人の日常の行
為への特別な感情に見ることができる。それゆえ、今回の大震災を教訓に、自然への「畏
む気持ち」をあらめて認識することの大切さを述べている。
稲畑の言う「自然へ畏れ」はその通りである。ただ一歩踏む込み、小澤の言うように、季
語がかつての季語として機能するのか、「機能不全」ではないのかとの疑問が残るのも事
実である。「新しき心」というときの「新しさ」が単なる一般論的な「自然への畏れ」を自覚す
る、そして「新しい無垢」なる心を持って、すんなり新しい時代のスタート台に立てるのだろ
うか。
同じように、小澤の言う「季語」の変質についても、そこだけで済む話ではないように思わ
れる。季語も含めた言葉それ自体が問われていることが本質的で深刻な課題ではないの
か。季語の比重の低い短歌や現代詩にとっても、受けた傷の深さは俳句と変わらないの
だから。
「俳人は俳句を詠うのは当然だが、いままでと同じ言葉でいいのかと自問が続く。言葉は
「精神そのもの」といったのは誰であったか。まさに精神はかつての精神ではあり得ない。
自然と科学の存在を前に、もう一度ゼロから言葉を紡ぐことを始めざるを得ないのではな
いか。放射能のある物質の半減期は万年単位という。それならわれわれの言葉の射程は
そこに置かざるを得ない。」 (「東北から大震災を思う」『豈』2011・52 号)
私のこの気持ちは今も変わらない。
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