2012 VOL.28 NO.324 俳句時評
モンタージュと鬼房
矢 本 大 雪
江戸時代の俳人が見れば現在の俳句作品は、多様さに於いては想像をはるかに超えて
いるのだろうか。文体は雅語体こそ少ないものの、文語・口語・会話体と入り混じり、仮名
遣いもさまざまで自由さが横溢している。表記にも、新語や造語なども含めた様々な語彙
の濫用は、絶えず新表現を求める現代俳句の名に恥じはすまい。すでに自由律は、物珍
しいものではなくなっており、無季の句は確信犯的に生み出されるのではなく、有季である
ことの必然性が薄れた瞬間に、誰の手からも生まれる一句となっている。その形式は、一
字空けにはじまり、多行分かち書き、横書きまで生まれた。さらにさまざまな技巧に彩られ
た作品は、もはや俳句の技巧にとっての伸びしろがすべて語り尽くされたのではないか、と
の危惧さえ感じさせる。しかし、俳句がそれら技巧について語ることを潔しとしていないよう
に感じているのは私だけだろうか。無論技巧が創作に先んじているわけではないことは百
も承知のうえだが、俳句の将来を考えれば、俳句の技巧はもっと整理され、語られ尽くす
べきだろう。無駄に技巧を玩ばぬためにも、また技巧に弄ばれぬためにも、俳句の技法は
研究しておくべきだろう。
さて、数ある俳句の技巧(レトリック)のなかでも、もっとも今後の俳句にとって重要になる
と思われるのが「モンタージュ」である。意識さえすれば誰にでも使用できよう。しかし「モン
タージュ」そのものは標的にはなかなか命中しない自爆のおそれ・確立の高い難儀な技巧
であろう。俳句の本質ともいえる「省略・沈黙」部分が際立つのがこのモンタージュの特徴
なのだ。書かれていないものを読もうとするために、モンタージュ作品の成功例はさほど多
いと感じられず、しかも読み手が自由に読み替えたり、落書きさえできる難解さを持ってい
る。ただ、それはその一句を解明し、分析し、一定の鑑賞で縛ろうとするからであり、読み
手が自由に何かを感じとろうとさえすれば、これほど魅力的な技巧もない。佐藤鬼房(以下
敬称を略す)の作品を例にとり、少しモンタージュについて考える。
まず二句一章とモンタージュとの関係である。二句一章という言葉(概念)自体が非常に
俳句的で、十七音という短さの中でこそ活きる言葉であろう。ただし、「切れ」に注目すると
短歌にもその意識はある。句の中に切れがあり、一句が二つのフレーズで構成されている
ものはすべて二句一章と呼んでいい。モンタージュと同義ではないが、二句一章は形式と
してモンタージュを含んでいる。さらに、モンタージュは取り合わせの技法をさらに先鋭化し
ており、比喩表現以上に意識の高い(意識しなければ用いられない)俳句の技法であろう。
ただ、作品によっては取り合わせ、二句一章、モンタージュの線引きがはっきりとは出来な
いものも多く、多くの具体例により分類・分析されることを待ちたい。以下の作品はすべて
佐藤鬼房の第一句集『名もなき日夜』の作品である。
蝶めしひ理化学辞書に燈がともる
柿の花少女の鼻梁すみとほり
発火器をみがきぬ鳩のさびしいかほ
昭和十年から十四年、つまり鬼房が十六歳から二十歳の間になした作品である。若々し
く冒険的ながら、すでに感性のよさが十分に発揮されており、瑞々しい。しかし誰にとっても
難解であり挑戦的でもある。
モンタージュは、ごく大雑把に分類すると、モノとコトの組み合わせで成り立っている。「モ
ノ」とは、これも大雑把で申し訳ないが、具体物、存在の感知できる対象(神・霊魂なども含
む)であり、「コト」とは具象に対しての抽象、意識・思考、現象・様子・事態などであるが、
実際の句のなかでの使用例では、はっきりと分けられない場合も多い。ちなみに、モノとコ
トの組み合わせは比較的わかりやすいのだが、モノとモノの組み合わせは、イメージ同士
がぶつかり合うため、読み手の想像力が占める割合が多くなり、難解となりかねない。た
だ、それが句の魅力ともなる。
先ず一句目であるが、「蝶めしひ」では必ずしも切れがないようにも見える。だから形式
的には二句一章とも言いがたいのだが、内容はあきらかに異なった概念の取り合わせに
基づき、より積極的に異質な「コト」同士のモンタージュが図られている、。上五と以下とで
は因果関係は成立していない。よって「蝶めしひ」を我々は「蝶めしひ(てをり)」 あるいは
「めしひた蝶」と読んでいる気がする。後半部の情景ははっきりとイメージできるのに対し、
蝶の部分は観念的ではある。しかし、作者自身に重ねたり、覚束なくとも翔ぶことを怖れな
い蝶に我々は心情を重ねることができよう。詩的でいながら現代性をともなった観念が若
々しい。二句目は「柿の花」がモノ、中七プラス下五がコトの形としてははっきりとわかるモ
ンタージュである。おそらくモンタージュとしては、一番鑑賞しやすく使いやすい例であろう。
モノである「柿の花」が明確なイメージで句に安心感を与えるゆえ、取り合わせるコトは、よ
ほどの的外れでない限りは、モノとコトが織りなす一つの状況設定は雄弁となる。この二句
目も安定的ではあるがモンタージュとしては衝撃度が薄い。三句目は、コトとモノの取り合
わせ。難解なのは「鳩」であって、それを作者自身とすれば、モンタージュにさえならなくな
る。だからこれは鳩でなくてはならないのだが、取り合わせは穏やかな気がする。
鬼房は全生涯にわたって作句の姿勢にゆるぎなかったと私は思っている。一俳句人とし
て常に前向きで自らの世界と斬り結びつづけた。モンタージュ作品も同様で、特段の(モン
タージュの)意識が突出しておらず、対象・テーマが要求する描き方をしたゆえに結果とし
てモンタージュ作品になったかのような、自然さが感じとれる。本来モンタージュは非常に
意識的な技法として語りたかったのだが、鬼房にかかればもはや技巧のあとかたすらはっ
きりしなくなる。鬼房からはなれ、モンタージュ一般についてはまた稿を改めて述べてみた
い。
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