小 熊 座 2012/5   №324 小熊座の好句
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    2012/5   №324 小熊座の好句  高野ムツオ



  東日本大地震は、私自身の世界観や作句のあり方に大きな変化をもたらしたが、

 作品の読みにも影響を与えた。そ
れは、この一年に作られた俳句だけではなしに、

 それ以前
の俳句の読みにもいえることである。しかも、どうやら私一人だけではない

 らしい。たとえば池田澄子が、「俳壇年
鑑」の巻頭言で、三橋敏雄の

   ひろびろと世に生死あり蟲の闇     三橋 敏雄

   おびただしき人魂明り花盛

 などを取り上げて「まるで、3/11以後に書かれたもののように迫ってきてならない」

 と述べていたが、そうした予
言として読み取ることが可能な俳句というものがある。

   今や有余るプルトニウム秋の暮     三橋 敏雄

 などは、震災以後の現実を見とおしていたようなリアリティを伴って読めるものであろ

 う。

  震災以降の句でも、同様で本来は震災の句ではないものを、自然と震災と結びつ

 けて読み価値判断している場合が
ある。そう読んで、より内容が深まる句もあろうし、

 そう
読むことで、作者の意図と乖離してしまうこともあろう。俳句の読みを一方的に限

 定的してしまい、より豊かな鑑賞
の可能性を閉じてしまっているのではないかなどと

 顧みて
しまうことも一再ならずある。これは「小熊座」の俳句にも言える。いや、「小熊

 座」の俳句だから、より言えるこ
とだ。普遍的な読みというものについて深く考えさせ

 られ
るのである。例えば、次の句

   海へ向く足跡ばかり春の雪       八島 岳洋

  これが夏の季語が添えられた句であるなら、海水浴へ喜び勇んで出かけた子供た

 ちの足跡と読んで誰もが納得する
ところだろう。しかし、「春の雪」と添えられると、ど

 う
しても昨年の大震災当日の春の雪を連想してしまう。すると、この句は、一年後の

 ある春の雪の日に、犠牲になった
人々を探しに、あるいはその冥福を祈りに、まだ寒

 いにも
かかわらず海辺へと向かった人々の足跡と鑑賞してしまうのである。それは、

 亡き人々の足跡とダブルのイメージに
なっている。春到来の夢見心地の雪片のはず

 が、悲しみの
羽となって降り始めるのだ。この句を、例えば潮干狩りが待ちきれず春

 先の海辺へ出かけた人々の足跡として鑑賞で
きる日が、やがて訪れることがあるの

 だろうか。

   死ぬまでの命蓄え春光に        越髙飛驒男

   眠らむか菫の気配折り畳み       平松彌榮子

 などの句も、本来は震災と関わりがないところで発想されているはずだが、犠牲者と

 の交感があって生まれたものの
ように鑑賞している自分がいる。

   在りて無き我らの時代薄氷       須崎 敏之

   胸元で渦を巻きおり雪解川       阿部 流水

 これらにも災禍の影を感じる。それは被災地という特別な場所にいる人間だからな

 のだろうか。



  

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