京都太秦広隆寺の弥勒菩薩像、ロダンの彫刻「考える人」。古来、思索する姿の造形が
多くの人々を魅了してきた。一体、考える姿はなぜ多くの人を惹きつけるのだろうか。
自らの内面に向き合うことはつらいことである。普段は忘れているが、まれに内面と向き
合って孤独感や不安などに苛まれると、多くの人はそれに長く耐えられない。その自己の
内面との対話を、思索する像は半永久的に続けているのだ。そして鬼房の句業からも〈宵
闇のいかなる吾か歩き出す(『何處へ』)〉〈おろかゆえおのれを愛す桐の花(『瀬頭』)〉等、
一貫して自己を見つめてきた跡がうかがえる。掲句もその系譜に連なる句と言えるだろう。
この句の収められている句集『半跏坐』には、昭和五十九年から昭和の終わりまでの句
が収められている。この時期の鬼房は六十代後半。昭和六十年に「小熊座」を創刊主宰
するも、その翌年、胃や膵臓を切除するほどの大病を患っている。
そんな時期の自己の内面と向き合う鬼房。上五の〈半跏坐〉は、冒頭にふれた広隆寺の
弥勒菩薩像を思い出させる。〈五月闇〉は梅雨時の暗さをいう季語だが、当時の状況や鬼
房の内面と通じるところがあるのだろう。
梅雨が明ければ本格的な暑さと強い日差しがやってくる。鬼房の内なる闇の向こうにも
希望の光はあったのだろうか。
(押野 裕「澤」)
半跏坐で思い浮かぶのは、奈良の中宮寺や、京都の広隆寺の半跏思惟像の弥勒菩薩
だ。台座に垂下し右足をあげて足を組み、右手を頬にあてる姿は、弥勒が悟りの成就を求
めて思いを深くしている様子を表しているといわれる。
鬼房の半跏坐の句は、平成元年6月に刊行された『半跏坐』に収められているが、昭和
62年の作品。この頃の鬼房は六十代後半。胃や膵臓の一部の切除や脾臓を摘出した時
期にあたる。それゆえ己を凝視し沈潜化、内向化した時期に当たるのかもしれない。しか
しこの作品をそのまま読むと、鬼房らしからぬ世界と言えないこともない。仏教の世界に身
を入れ、澄まし、取り入っている鬼房の姿が見える。綺麗すぎないか。隠しどころがなく濁り
がない。〈五月闇〉が作品の陰影を支えてはいるものの、やはり鬼房の世界とは違う。現実
の半跏坐ではなく「内なる」としたところが、かろうじて鬼房が踏みとどまったぎりぎりの地点
か。
いや、むしろ内側に半跏坐の静謐な悟りへの志向を持つ故に、混沌とした己も含めた現
実への冷静な視線を持ち得ると理解すべきなのかもしれない。同じ句集に収められた〈蝦
蟇よわれ混沌として存へん〉の生々しく匂い立つ世界のほうが私には親しい。両作品は対
にして一つである。
(渡辺誠一郎)