夫の郷里である新潟が昨冬は大変な大雪に見舞われた。今回鑑賞させて頂く機会を得
て、再度この句を一読させて頂いた時に浮んだのは、二月に訪れた夫の実家の窓から眺
めた無音で雪が降り続く朝の景色であった。
東京の下町根岸で育った私には、たった一晩で町の眺めが変化する経験はそれまでに
ない。訪れた姪っ子達が遊んでいた玩具も、見慣れた向い家の畑も路地も、薄暗い独特
の空を映す薄灰色の雪にただ埋もれていく時間。あの時の強い喪失感が瞬時に蘇った。
たった一年前、一瞬で人は自然と定めに抗えないことを私達に知らしめた大震災があっ
た。多賀城市に発行所を置かれる小熊座の結社の皆様には改めて心からお見舞い申し
上げます。もちろん今回の天災人災を知らずとも凄まじい戦と戦後を生き、あの時代を過
ごした鬼房氏は私達以上にその事を熟知していたことであろう。
雪を被った雪兎は、音もなく降り積もったその重みできっと静かに拉げてしまっているの
だろう。だが鬼房氏の眼を通したそれは悲しげでも淋しげでもない。自分の定めに折り合
いをつけ向き合っている佇まいさえある。拉げ、そして明日には溶け出してしまう雪兎。し
かし形は変われども、自然に定めの中で地中に染み、新たな命の糧となり育まれていくで
あろう覚りが句の芯にある。
(内田麻衣子「野の会」)
穏やかな雪である。静かで小さな一軒の庭である。雪兎に雪が降って見えなくなった。さ
みしいことであるな、と思っていた。しかし、その静かさゆえに、先生の御姿、佇まいが語り
かける。「元気でやっているか」と。兎は、その優しさに心打たれる。ピンと耳を立てて、「は
い、元気です。」と答える。兎の形は見えないけれど、先生は、ずっと静かにほほえんでい
る。
雪に埋もれた雪兎は、さみしいものと思っていた。しかし、兎の中には、ここぞとばかりに
弾けるものもあるのだろう。〈ゆきだるま〉は、空を飛んだ。飛ぶなら木星で餅をついたこと
もあるんだぜとホラを吹く兎。餅をつくといったって、君には手も足もないだろう。手のひら
を上にして西洋人のように肩をすぼめてみせると、ガリガリガリ、彼は、その歯で氷柱をか
じっていた。ゆきだるまと男の子の一夜は極上のファンタジーだが、雪兎ものがたりは、男
の子女の子のみならず、おじいさんとおじいさんの知り合いまで巻き込んでのスペースファ
ンタジーと化し、目がさめたら何も覚えていない夢となるところを、鬼房先生は、溶けない
文字でその輪郭を書き止めた。ところで、福島の山に〈雪うさぎ〉は今年も出たのだろうか。
「福島人に春の訪れを知らせるのが、あいつの仕事だからね。いつものように出ているは
ずさ。」兎は赤い目をして言った。
(遅沢いづみ)