「恋に死ぬ」を「恋のために死ぬ」ことだと思った。それゆえ「枯」を老いとしか読めなかっ
た。「俺は老いてなお恋のために死ねるのか、柏の木よ。そしてお前はどうだ?」というイメ
ージである。
だが、「のため」が省略されている保証はない。念のため探すと万葉集に「君を離れて恋
に死ぬべし」の例がある。註釈によれば、「恋に死ぬ」は「のために」の意味ではなく「恋死
ぬ」と同じように恋しさのあまり焦がれて死んでしまうことらしい。とはいえ「できるか」の口
語を思えば古文の例をそのまま適用できるのか疑問が残る。どちらなのか断定は出来ず
重ね描きのイメージで命がけの恋と思う。
改めて「枯柏」を読み直す。特徴は大きな葉が枯れても新芽が出るまで落ちることなく枝
に残ることだ。その立ち姿、風に鳴る葉音は神宿る木とされ「柏木の葉守の神」と歌われて
もいる。いわば枯れた姿において別格の木である。一般的な「老い」のイメージに回収され
ないと気づく。
「老いてなお」ではなく、超越的な強い存在として「恋に死ぬこと」を選べるのかと問うてい
るのだ。「恋」と「死」を文脈に持つことで「枯柏」に宿る神は清浄な姿ではなく、うごめく力と
熱を芯に内包した静かに荒ぶる姿となる。鬼房が出会ったのは「恋」と「死」という近代の自
意識と太古の力を繋ぐ「枯柏」の神だったのである。
(水野真由美)
鬼房先生が亡くなられてから、十年という歳月が経ってしまった。歳月の歩みの、無情な
までの早さに、声もなく立ち竦むばかりである。でも、その一方で、月日が経つにつれて鮮
明になり、幽明界を異にしていることを、忘れさせてくれる人がいることも事実である。父が
そうであり、母がそうであり、そして、鬼房先生もそのようなお一人である。某年某日、ある
句会帰りの電車の中で、掲句のことが出て、大いに盛り上がったことがあった。初恋のこと
なども話してくださる先生に感激し、不躾にも「恋に死ねますか」とたずねてみた。先生はカ
ンパツを入れずに「出来ることならしたいねェ」と、いたずらっ子のように、ニヤッとされた。
そして「わたしは早々と『名もなき日夜』や『夜の崖』を出してしまったけれど、心の中にあっ
た若気の、虚飾というものの裏付けだったような気がしてならないンだよね。でもこれはこ
れで鬼房らしくていいと思っているけどね…」と、ポツリポツリと言葉を選ぶように話してくだ
さった。推敲を重ねているうちに、詠みたいこと(対象)とは関係のない作品になっている、
という先生のことだから春に芽吹くまで、枯葉を落さずにいる柏の木への思いが、俳句に
対する思いと重なって、それを気取られまいとする鬼房流の含羞が掲句に変身したのでは
ないか。その背景から〈地に帰る雪の精こそわがをんな〉にこめられた、鬼房にとっての、
永遠の女性像が顕ち上がってくる。
(佐藤きみこ)