2012/9 №328 小熊座の好句 高野ムツオ
本当は怖いお話ばかりの夏 森 黄耿
幽霊は夏の季語とばかり思っていたが、そう断定するには時期尚早らしい。手元の
歳時記を見た範囲では、項立てされているのは現代俳句協会編の「現代俳句歳時
記」のみで角川の「俳句大歳時記」、講談社の「新日本歳時記」そして、最近刊行され
たばかりの小学館「日本の歳時記」にも収録されていない。ナイターやサーフィンが夏
の季語となっていることを考えれば、幽霊も納涼の派生季語であってよさそうな気も
する。もっとも、四谷怪談のお岩さんは蚊帳の中に出るから夏の趣向だが、真景累
が淵の宗悦は年も押し詰まった二十日頃に出て来る。幽霊が出るには季節は関わ
りがないようだ。幽霊ではなく妖怪の話を語り継ぐ百物語を催すのは新月の夜と決ま
っているが、季節は決まっていない。まあ名句が生まれれば、「幽霊」も季語として定
着するだろう。
ところで、掲句の「怖い話」とは何だろう。幽霊は、悪業を犯し、恨みを買ったものに
だけ見える。だから、お岩も宗悦も四谷怪談の伊右衛門や累が淵の新左衛門にとっ
ては怖い存在だが、関わりのない人間には怖いものではない。本当に怖いのは、何
の悪業もなさない民衆にまで災いをもたらす現実である。今年の夏は放射能の話は
ひそかに潜行し、世界のあちこちでテロや弾圧が続いた。長崎広島の話も年々古び
る。そういう話の方が「本当は怖い」と、この句は暗示しているのだ。もしかしたら、享
受するところは享受して、何にもせず黙って見ていること自体が悪業で、その祟りが
今起きているのかもしれない。
老いてなほ未知の老いあり冷奴 山田 桃晃
夏になると自然と手にとってしまう一冊が子規の「仰臥漫録」。繙くいとまはなかった
が、俳句甲子園の松山行でもバッグの底に潜ませて置いた。子規以降百年ほどは、
戦争や病気で生きたくとも生きることができない時代だった。ひるがえって今、死にた
くとも死ねない時代を迎えている。それでも、その老いの果てに一縷の望みを持とう
というのが掲句。冷奴が何ともつつましい。〈観念の死を見届けよ青氷湖 鬼房〉とは
趣はだいぶ異なるが、ここにも晩年を見つめるまなざしが確かにある。
お盆来る花屋の裏の花の屑 宇津志勇三
盆前の花屋は、いわば書き入れ時。供花の準備に追われる。昨今は、みなきれい
に束ねられた供花を買っての墓参である。農家には、かつては供花用の畑や園が敷
地の一角にかならずあった。草花とは言え命あるもの。捨てられてある花屑にそそ
がれる視線はつつましくかつ優しい。
合歓の花十月十日の夢のごと 大西 陽
十月十日は誰もが生まれてから胎内で過ごした至福の時間。覚えてはいないが、
誰もの記憶の底に確かに眠っている。それが、偶々、合歓の花となって現れたので
ある。
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