「一瞬」が、掲句の生命である。即ち、「鶺鴒の一瞬」であり、「一瞬われに岩のこる」なの
である。鶺鴒の一瞬の飛翔が、作者の意識を不意打ちした。眼前に存在していた鶺鴒が
存在しなくなった。その瞬間に鋭く反応し、その驚きを正確に具体的に言い止めた。
しかし、鶺鴒に取り残されたのは、岩ばかりではない。本当に取り残されたのは、鬼房自
身だったのである。「われに」の措辞は、作者の自意識が刺激されたことを示している。乾
いた石が白々と広がり、崖裾には岩が点在する河原。その景の中、自分自身と向き合う
他なく立ち尽くす鬼房の後ろ姿が見えて来るではないか。
一体、私とは何者なのか。なぜ、此処に独り立っているのか。自問自答するばかりの、若
年のこの孤独感には、何故かある種の澄みを覚える。主客一如の簡潔平明な表現の故
か、秋という季節の故か。
私は、塩釜神社で、晩年の氏に偶然お会いした事がある。杖に身を預けて、柔らかく、し
かし、孤高の雰囲気を漂わせて、立っていられた。その立ち姿を、私は鮮明に思い出すこ
とが出来る。この文を書いている今、鶺鴒に取り残された鬼房の立ち姿と、現実にお会い
した氏の立ち姿とが重なって顕れて来る。しかし、前者は後ろ向きであり、後者は前向き
の姿なのである。
(岩田 諒 「俳句響宴」)
この句には動かぬものが二つある。岩、そして作者の視点である。それは「われに岩の
こる」という表現から推し量ることができる。鶺鴒の動きを追わないからこそ、岩は残像とな
らず現存し「のこる」。視点は動かないのだ。
動く「鶺鴒」と、動かぬ「岩」と「われ」の対比の中に自らを投影するものがあるのではない
かと私は見る。さらには動かない意志すら感じるのである。
この作品は第二句集「夜の崖」に収録されている。その序文に西東三鬼は「鬼房君は俳
句性に従ひつゝ、観念を生かす方法を発見してゆかねばならない」と記し、鈴木六林男は
鬼房の言葉として「社会性リアリズムと精神的リアリズムが殆ど相容れないといふ大きな誤
謬は文学としての俳句の悲劇である」と紹介している。この言葉が何を言わんとしているの
か私には解読できないのだが、目に映る世界一つひとつに自分にとっての存在理由を持
たせ、言葉として表現する、そのようなことではないか。
さすればこの「岩」は鬼房の今なお生活する場、「みちおく」に違いない。視界から消える
「鶺鴒」は、神話の、子宝に恵まれる類ではなく、戦前戦中の己と読んだ方がいいだろう。
自分の体験を過去のものとする決意、そして今一度、自分の生きる場所を確かめた句と
読んでもいいのかもしれない。
(吉野 秀彦)