2012/10 №329 小熊座の好句 高野ムツオ
この世に残る人々がくる蓮の花 越高飛騨男
泥水から生まれて清浄な花を咲かせる蓮は、仏教では仏の智慧や慈悲の象徴で
ある。そして、蓮座を始めさまざまな意匠に取り入れられ、極楽浄土のイメージ形成
に欠かせない花となっている。これは古代インド、例えばヒンズー教のなどでも同様
だが、もともとは蓮が女性の象徴として尊ばれたことに端を発する。女性の階級を四
段階に分け、その最高位をバドミニと呼んだそうだが、それは蓮の花という意味らし
い。ひらたく言えば蓮の花は、女陰であって、そこに生命誕生の神秘を見たのだ。古
代インドでも、かつては女神崇拝が主流だった。
蓮見物は、日本各地でさかんで、宮城では伊豆沼が名を知られている。蓮の葉の
中をかき分けるように舟でたどるさまは、いわば母体回帰の疑似体験ともいえるので
ある。
「この世に残る」は、おそらく高齢である作者の、この世での残り時間を意識した諧
謔的な物言いであろう。しかし、表現に忠実に読めば読むほど、自らは、もうすでに
「かの世」の住人であり、蓮の花影あたりで、生者、それも、まもなく、自分と同じ世界
の住人になるであろう人々を待っているかのように読める。自らを死者と断じながら
この世の人との邂逅を待っているさまは、しかし、この世への未練や悔いゆえではな
い。ただ「この世」という時空への深い愛惜があるゆえである。
蛇足となるが、被災地にいる立場で鑑賞するなら、作者が犠牲者と一体となってい
ると解することもできる。その時は、蓮座に並んで笑顔を絶え間なく送っているたくさ
んの犠牲者の姿が見えてくるだろう。
髪洗ふもしもの時も髪洗ふ 中井 洋子
髪も古来から霊力の依り代と見なされていた。これは髪が、人間の体の中で、簡単
に切り離すことができ、かつほどなく再生する神秘的な部分であるからだ。その不思
議な生命力が尊ばれたのである。日本では平安辺りから、長い黒髪が美の象徴とな
ったが、その理由も、ここに由来する。女性の髪をお守りとする船霊信仰なども同様
だ。宣耀殿の女御と呼ばれた藤原芳子の髪は、御車に乗っても母屋の柱にまで届
いていたという記述が「大鏡」にある。反対に、髪の乱れは秩序の乱れそのものでも
あった。その髪を洗うことは、そのまま自らの命を確かめ、蘇らせる行為といってい
いだろう。そのナルシズム的な行為は、死を表裏にすることで、いっそうエロスの輝き
を増す。
敦煌の沙より出し星月夜 吉野 秀彦
胸底に邯鄲を飼い少女老ゆ 澤口 和子
湿舌の先端にゐて柚子の花 中村 春
「敦煌」の壮大なメルヘン、「邯鄲」のあえかな時間の流れ、「湿舌」の土俗性。「湿
舌」とは梅雨前線が生む暖湿流のこと。南方の気候である。
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