作者は秘佛を見たことがないのでしょう。数年或は数十年に一度開帳されることがありま
すが、その時も作者は見ていないのだと推察されます。見たことがないから想像がふくら
み、それは妄想ともいうべきものにまで発展する。「女体なるべし」 ―女体であるにちがい
ない― とは言っても、この女体は血の通った本当の女性の肉体という意味ではありませ
ん。佛の身体は本来男とも女ともつかないものです。至高のものであるからには、やはり
男でも女でもないものであって欲しいと凡百の信徒は願うでしょう。しかし私たちは知ってい
ます。限りなく男性を思わせるたくましい佛像があり、はたまたなよやかで、女性以上に女
らしい、女体としかいいようのない佛像もある。
作者は考える。女体に似せて作られた佛像しか秘佛にはならないのではないかと。或は
秘佛として人の目から遠ざけられている佛像は女体をもっているにちがいないと。
けしからぬところへ行きそうな妄想を辛うじておさえているのは「稲の花」である。目立た
ず、小さく、色も匂いもあるかなきかの稲の花。しかしそれは豊穣な実りを暗示するもので
もある。稲以外の花は〝女体をもつ秘佛〞をおとしめる。稲の花は、花であって花ではな
い。豊穣へのかけはし。赦しにも似ている。この稲の花が無ければ作者佐藤鬼房の妄想
は祝福されることもない。
(橋本七尾子「円錐」)
第一印象は豊饒への祈りであった。でも、それだけなのだろうかという思いが頭から離れ
なかった。
そんな折、所属している真言宗豊山派布教研究所の研究員十名にこの句の印象を聞く
ことができた。この研究所は難解な仏教用語を平易な言葉に置き換えるという研究もして
いる。
それぞれは、「秘仏」「女体」「稲の花」にどんな意味が隠されているのか論じてくれた。そ
の多くは私の第一印象と同じであったが、なかには一年に一度しか咲かない「稲の花」の
生命の尊さが「秘仏」「女体(女性器)」への畏敬と相まって、創造力と生命力を讃えている
のだという意見も出てた。
私は考える。山川草木悉有仏性と考えたとき、女体より出てた我ら全ての命は仏であり、
秘仏なのだ。だからこそ、秘仏を生み出す「女体」そのものが「秘仏」であり畏敬は極まる。
これは昨年、吉本宣子氏が本誌で述べたところに近い部分であろう。
しかし、「なるべし」という語に、そうあって欲しいという願望の匂いを、さらには「稲の花」
にこれから先も無事に実って欲しいという切実な思いを見ると、そこには母体回帰をもって
しても拭えきれない、忍び寄る死への不安があるように見える。
(吉野 秀彦)