2013/3 bR34 小熊座の好句 高野ムツオ
水温むころの蛇籠は夢うつつ 沢木 美子
蛇籠は竹や針金などで編んだ籠に、栗石や砕石を詰めて川の両岸に設置し治水、
利水の用とした、簡易な堤防のことだ。古くは室町の頃からあったようだが、石が豊
富な上流部に限られていた。頻繁に使われるようになったのは世の中が平和になっ
た江戸時代あたりからで、戦後の私の子ども時代の川辺も蛇籠だらけだった。蛇籠
と呼ぶのは、この籠が細長い円筒状で、その姿が伏した蛇に似ているからだが、古
来より蛇は川に付きもの。その連想が働いていることを否定するわけにはいかない。
出雲の斐伊川の八岐大蛇も紀伊日高川の清姫も、ともに荒れ狂う川の化身である。
そうしたことを下敷きにすれば、この句は単に春の光に満ちた川縁の駘蕩たるさまを
描いた句とばかり鑑賞できなくなってしまう。実際、雪代や梅雨、台風の際の川は、と
きに蛇身そのものとなる。しかし、今はまだ川もその川を護る蛇籠も夢の中。災害や
その恐ろしさを表裏とすることで、この夢見心地のひとときはいっそうかけがえないも
のとなる。そう鑑賞すべきだろう。そういえば作者の住まい関市を流れる清流長良川
も長年洪水をもたらし人々を苦しめた川である。堤防のない下流に発達した輪中は
よく知られている。
初日の出津波の村に永住し 古山のぼる
津波や放射能禍によって父祖伝来の地を捨てざるを得なくなる悲劇は、現在も進
行中である。こうしている間にも、決断を迫られ、あるいは捨てると決断をしている人
が数知れずいることは想像に難くない。この句は、そうした状況を踏まえながら、か
ろうじて父祖の地を捨てずに済んだ境地を詠んだものだ。しかし、安心や喜びよりも
剛直の意志のようなものが句を貫いている。それは下五の「永住し」という言葉の斡
旋にある。これから「永住する」と言っているのではない。すでに永住していると言っ
ているのだ。つまり、作者は、もはや自分は泉下の人間だとの前提で物を述べてい
るのだ。ここに精神の剛直性が秘められている。この被災の村の初日の出に、死ん
でなお、未来永劫毎年、手を合わせ続けるという決意である。むろん、それは津波の
死者を弔い、子孫の平穏を祈るためだ。
子を宿すごと初雪を掌に 松岡 百恵
こういう句を読むと清純であることとエロチックであることとは、矛盾するものでは決
してないと納得させられてしまう。天上からやってきた雪の精がもたらす受胎告知。
雪の精が、そのまま体に溶け込んでいくのだ。実に崇高なエクスタシーが、ここには
表現されている。
好物のひとつ冬日を吸ひにけり 郡山やゑ子
セーターより首出して一億分の一 牛丸 幸彦
さざ波のこほる刹那のかたちかな 瀬古 篤丸
これらの句の諧謔味にも、今を生きてある実感の裏付けがある。
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