ムカシのこどもたち―つまり、こども時代の私たちは、身の周りの眼に触れ手に触れる
何もかもが「おもちゃ」であり、遊戯であった。浜辺の貝殻、森の木の実は無論、小川では
沢蟹をつかまえ笹舟を浮かべ日暮れまでわれを忘れて遊んだものである。私のふるさと山
陰の冬はながく、深雪の闇に閉ざされたが、こどもたちは嬉々として雪と戯れ、ときに風雪
の恐ろしさを心身に叩き込んでいった。
「綾取り」も、そんな暮らしの中のひときわ懐かしい遊びの一つである。戦後の貧しい母た
ちが、こどもたちに何度も編み返すセーターや手袋。その縮れた余り糸を貰って、少女た
ちは飽きもせず「綾取り」に夢中だった。相手がいなければ独りで「川」「ゆりかご」「鼓」と毛
糸を手繰っていく。だが、「欄干」(橋)の所に差しかかるといつも糸が縺れ「橋」は予想もし
ない変貌を遂げるのだった。
「橋」とは、こちらからあちらへの通路である。「向こう」にあるものに向かって、人は繰り
返し〈綾取〉を仕掛けるのだ。あちらへの期待と夢に促されて。
掲句の〈橋〉の様相はしかし、またしても崩れ去る期待への悔恨と慰撫の表白であろう。
だが、鬼房はけっして絶望してはいない。生涯を負の視座に徹して歩んだ鬼房にとって、
〈雪催〉の空こそがまさしく現世であり、〝わが「俳句」の根拠〞たりうる事を、密
かに確信していたからだ。
(増田まさみ)
掲句のようなやさしさの溢れた作品が、鬼房先生にあったのだと言うことを、今回の鑑賞
文依頼で初めて知った。
私は鬼房先生が逝去された三年ほど後に「小熊座」に入会したので、鬼房先生には一度
もお会いしたことがなかった。でも、句会のあとの懇親会などで、先輩の方々の話されてい
る鬼房先生の作品やエピソードなどを度々耳にしているので、「東北の風土に根差した重
厚な作品を作る作家」だと言うことは存じ上げていた。そして、自分なりにイメージをふくら
ませて、畏敬の念も抱いてきた。一度でもいいからお会いしたかったと、折にふれて思って
きたのだが、掲句を知りその思いが一層強くなった。
昭和に生れ育った私にとって、綾取りはとても懐かしい遊びのひとつであった。幼い頃冬
が来ると雪だるまを作ったり、父が作ってくれた橇で滑ることに倦きてしまうと、遊び仲間た
ちと炬燵に入って綾取りに興じたものだった。今、その頃のことを懐かしく思い出している
が、綾取りに使った紐の色までが鮮やかに蘇がえってくる。
この句のモデルになったのは、鬼房先生の奥様とお嬢さんたちであろうか。ある日ある
時の鬼房家のたたずまいが、やさしく温かく浮き上ってくる。ひょっとしたら、鬼房先生も、
ペンを持つ手を休めて、この綾取りの仲間に加わったのかも知れない。いずれにしても、
何気ない家庭の一コマが、〈橋が崩れて〉という言葉と、〈雪催〉という季語の働きで深々と
した作品になっているように思われて、言葉の使い方、季語の使い方の大切さを、あらた
めて考えさせられた心に沁みる作品である。
(日下 節子)