2013 VOL.29 NO.336 俳句時評
子規の見たみちのく ― 「はて知らずの記」から ―
渡 辺 誠一郎
子規は明るくて広い。それは人間性と文学的視野の広さについていえるのだが、さらに
ものを見るときには過去からも自由で曇りがない。
それはみちのく、東北を見る姿勢にも表れている。
久し振りに「はて知らずの記」を手に取った。
子規は明治二十六年七月十九日、夏の真っ盛りに一人、東北に旅立つ。二十六歳の時
である。この前年に大学を退学し入社した日本新聞社の社長陸羯南の援
助によるところが大きく、約一ヶ月にわたる紀行は、「はて知らずの記」と題して、新聞『日
本』に連載される。
この旅には二つの目的があった。芭蕉の「おくのほそ道」の跡を辿ることと、俳句革新の
考えを広めるために東北各地の旧派の俳諧宗匠を訪問することであった。
しかし、旅の第二の目的は、初めから躓くことになる。子規は駒下駄に袴という、当時とし
ては正装で紹介状を手にして宗匠を訪ねるのだが、若輩ということもあり、軽くあしらわれ、
逆に宗匠の門に誘われる始末。十九日に上野停車場を汽車で発って、早くも二十三日に
は郡山から碧梧桐に次のような手紙を送ることになる。
「已に今日迄に二人おとづれ候へども、実以て恐れ入つたる次第にて、何とも申様なく、
前途茫茫最早宗匠訪問やめんかとも存候程に御座候、俳諧の話しても到底聞き分ける事
もできぬ故、つまり何の話もなく、ありふれた新聞咄どこにでも同じ事らしく候、其癖小生の
年若きを見て大に軽蔑し、ある人は是非みき雄門にはいれと申候故少々不平に存候処、
他の奴は頭から取りあはぬ様子も相見え申候、まだ此後どんなやつにあふかもしれずと
恐怖之至に候、此熱いのに御行儀に坐りて、頭ばかり下げてゐなければならぬといふも
面白からぬ事に候、」と。
それはともかく子規は「松島の月先心にかゝりて」との芭蕉の言葉を受けて、次の
ような書き出しで東北へと歩みを進めたのである。
「松島の心に近き袷かな
と自ら口すさみたるこそ我ながらあやしうも思ひしか つひにこの遊歴とはなりけらし。先づ
松島とは志しながら行くては何処にか向はん。」
芭蕉の旅は、能因法師はじめ古人の歌に詠まれた歌枕を巡る旅であった。芭蕉が、塩
竈神社で和泉三郎寄進の鉄灯籠を前に、「五百年来の俤、今目の前にうかび
て、」と感慨に耽ったのに対して子規は、「七百年の昔ありありと眼に集まりたり」と追想し
て見せる。しかし歌枕への視線は必ずしも同じではない。
宮城の野田の玉川を訪れると、「真の玉川に非ずして政宗の政略上より故らにこ
しらへし名所なりとぞ。」と言い切る。やはり末の松山に至っては「同じ擬名所にて横路な
れば入らず。」と無視を決め込む。「政宗の政略」とは正確ではないが、子規の興味は歌
枕の幻想にではなく、あくまでも現実に向いているのである。
さらに芭蕉の場合、「道の果て」、「辺土」、そして「塵土の境」の言葉に象徴される、まつ
ろわぬ民の住む「異界」としてのみちのく世界であるとする、古代からの辺境観に依ってい
る。
東北を「辺境」「後進」「未開」と捉えるのは明治になっても変わらない。むしろ全国を統一
支配した明治という国家によって、それが増幅された側面もある。この時代には、いわゆ
る「白河以北、一山百文」の言葉が生まれた背景を考えれば分かることだ。しかし、このよ
うな中にあっても子規の東北への偏見は少なく、地域の風俗や風習には、日常の生活者
に似た視線を注ぐのだ。
旅の三日目、子規は下駄を履き、袴で正装をして郡山の俳諧師を訪問する。しかし、年
少であったせいもあり、俳句革新の話には耳を傾けてもらえず冷遇されたと、河東碧梧桐
に手紙を送るが、東北という地域への偏見はない。しかし、ここで早々と俳句革新を広め
ようとする旅の目的の一つを放棄することになるのだが。
子規は新聞の読者を意識していただろうが、やはり東北の風俗を自然に受け入れてい
る。福島の桑折を過ぎたあたりで茶屋を営む婆さんや嫁さんから顔色の悪さを心配され、
地元の言葉で声をかけられると、「むくつけき田舎なまりも中々に興あり。」と方言に親しみ
さえ寄せる。また、山形への道中で茶屋を訪れてみると、その日の茶も湯もなくなってしま
ったことを告げられると、「風俗の質素なること知るべし。」と困った様子も見せず、むしろ
好意的に受けとめるのである。
このような子規の東北に対する偏見の少なさは、身近に東北出身者の知人が数多くいた
からかも知れない。先にあげた子規の才能を高く評価していた羯南は青森弘前の人。こ
の旅の途中、仙台で歌論を交わし子規に大きな影響を与えたとされる歌人の鮎貝塊園は
宮城の気仙沼の出。後のことになるが、小説家で子規から俳句を学ぶ佐藤紅緑はやはり
弘前出身。また、俳句の石井露月は秋田県と、子規を取り巻く人物には東北出身者が多
い。それゆえ親密度は特別であったといえそうだ。さらに明治三十年、日本派の俳句結社
「奥羽百文会」が仙台で発足すると、東北と子規との関わりは一層深まっていく。
他方また、子規の出身地伊予松山藩が幕末時に東北諸藩と同様に朝敵としての立場で
あったことや松山中学時代に自由民権運動の刺激を受けたことも、子規の東北観に影響
を及ぼしているのかもしれない。
しかしやはり、子規の東北に対する視線の根底には、何ものにもとらわれず物事を真直
ぐに見ようとする子規自身の好奇心の強さが大きいように思われる。それは後に「写実の
目的を以て天然の風光を探ること尤も俳句に適せり」(『俳諧大要』)と述べるよう
に、「写生」や「写実」の精神は子規生来のものだったのかも知れない。
その意味で、子規はあくまでも自分の目を信じる終生にわたる自由人であったのだ。
『子規の見たみちのく』(仙台文学館)一部加筆
|