2013/5 bR36 小熊座の好句 高野ムツオ
昨年の六月、栃木大田原で毎年開かれている黒羽芭蕉の里全国俳句大会に選者
として出席した。その席題に「梅干」があって「仮設にも梅干す頃となりにけり」という
句が投句された。作者は小熊座の内山かおる。私の入選句と記憶している。そして、
選評で、この「仮設」について、果たして、これだけで「仮設住宅」という意味に受け取
ることが一般的に可能かどうか述べた。「梅干し場」そのものが仮設とも読めるから
だ。私の後の黒田杏子の選評が印象的だった。正確ではないかもしれないが、確か
「疎開」を例にして、言葉に籠もる意味やイメージの変遷について語った。なるほど、
「疎開」は木の枝を刈り込んでまばらにするという意味や軍隊が、攻撃の被害を少な
くするために分散して距離を置くという意味もある。空襲から逃れるために、ことに子
供が田舎に避難する「学童疎開」としての意味で使われ、定着するようになったのは
大戦以降なのである。そして、「仮設」も、これだけで「仮設住宅」として定着するかど
うか、それは、これからのこの言葉の使われ方にあると結んだ。言葉は、一つ一つ、
長い歴史の中で育まれ、確たる世界を内蔵する。同時に、その時代時代の波の中で
絶えず変動し続ける。俳句そのものも、また同様である。
梅三輪仮設の日暮沖より来 澤口 和子
この句の「仮設」も、「仮設」の意味に厳密に従うなら住宅であるかどうか、なかなか
判別しがたい。しかし、仮設のある場所が、海の見える高台で、どうやら暗く狭い空
間であることは想像可能である。したがって仮設住宅と推定できる。やっと咲き始め
た梅を「三輪」と限定したことで、その仮設住宅に暮らす家族の人数まで類推できそう
だ。空間の広やかさも、どこか未来への希望につながっている。
一つ、余計なことかもしれないが、付け加えておく。それは、実際に作者が仮設に
住んでいるかどうかという事実の如何が、この句の価値とは関わりあいがないという
ことだ。東日本大震災後の仮設住宅へ住む人達への思いが、日頃念頭にあって初
めて、こうした発想が可能となるからだ。
地図にない仮設住宅にも桜 関根 かな
「仮設住宅」をそのまま一句に入れているが、これも仮設住宅住まいではない人の
作。ただし、実際に仮設住宅を目にしていないと、この発想も生まれないだろう。仮設
の多くは公園など、もともと宅地ではないところに設置されている。 「こんなところに
も」というごく自然な、悲しみを伴った思いが「地図にない」という言葉を生んだと想像
できる。仮設住宅は、本来は地図にも現実にもあってはならないはずの住まいなの
である。
青になる野蒜の海のやっと青 上田由美子
「野蒜」を季語と読むか地名と読むか、それは鑑賞者の自由というもの。両方と読
んでもいい。もともと、野生の蒜が繁殖していたから、この地名が生まれた。
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