この句は重層的に感じ取る様に書かれている。作者が蝶の夢を見る、その二つ目は蝶
が夢を見る、と言うこと。後者の場合は「蝶の」の「の」の格助詞のゆらぎ、不安定性により
所有格が主格の作用となり、蝶が夢を見るとも、鬼房氏が書いている。従って鉛筆を握る
のは蝶。その不安定感としてある蝶自身がそれゆえ鉛筆を握り、何かを書いて訴えようと
しつつ夢見る。この二通りの双方に「握る」と言う意識的、無意識的な身体的行動と、心の
内面的な作用とがこの句の中に共生または同居的に棲みついていて、重層的表現のリア
リズムを具現している。「握る」は対象である事物的存在を把え、自己化する、そして自己
に融合せしめること、または自己がその事物的存在になり、更には自己がその存在にな
ると共に存在への執着の表出と自己確認することでもある。「蝶の夢を見る」は、夢の中で
蝶を見、思い描くこと。そして蝶自身の見ている夢が作者には見え、見ていると言う幻想的
表現でもあり、また作者が蝶になって夢を見ている、と言う主体の転移的表現内容が微妙
にかすかに感じ取れてくる。「握る」と言う存在への現実的執着の次元において、それと同
時的にその執着から離れて蝶の夢を見る、自らが蝶になって夢を見ると言う内的な質的
変成ないしは異化作用を表現的に試みられており、それは抽象性の、そう言うリアリティの
試みとしてある。
(「現代定型詩の会」 大谷 清)
掲句を一読し、鉛筆を握ったまま、うとうとと夢を見ている景が浮かんだ。なんと心穏やか
で、優しい句だろう。
二度三度と読み返すうち、そうではないと思い始めた。それは「鉛筆を握る」「夢を見る」
からである。この二つの動詞には、鬼房の強い意志と俳句作りへの決意が感じられた。た
だ鉛筆を持っているのではない。何かを書こうと握っている。夢も漠然とではなく、心に焼き
付けようと見るのである。この二つのイメージが交りあうところは何か。それは、死に向か
う鬼房の心の中であったろう。 蝶は鬼房自身であり、夢は鬼房の夢、俳句作りの夢であ
る。だから夢を見、表現するために鉛筆を握るのである。掲句は、中七の「握りて」で切れ
る。ここまで穏やかに、そして一気に読み下すリズムに、強い決意と重みを感じる。
掲句は最後の句集「幻夢」の中にあり、この句の前後には〈夢〉〈蝶〉をテーマとする句が
四句並んでいる。鬼房は、いまだ蝶の夢を探し求めているのだろうか。生と死を見つめて
いる鬼房の俳句への思いと、それに対峙する姿勢の厳しさを感じた。
佐藤鬼房俳句大会のシンポジウムで、初めて鬼房の作品に触れた。その時、ずしりと重
く胸に響いたことを覚えている。句に圧倒され、驚きで一杯であった。鬼房の多くの句に接
し、勉強したいと思っている。
(鎌倉 道彦)