2013/8 bR39 小熊座の好句 高野ムツオ
あって無い町がふるさとつばくらめ 武田香津子
大震災からまだ二年数ヶ月しか経ていないからだけではないが、まずは津波災禍
の町と読むのが自然だろう。この二年間、回数はしれているが気仙沼や石巻、そし
て、仙台近郊等の宮城県内の被災地に何度か足を運んだ。そのたび、現場の痛ま
しさには口をつぐんでしまうのだが、その印象が少しずつ異なってくるのも事実であっ
た。被災当時の粉塵や悪臭がなくなり、瓦礫も、以前より目につかなくなった。それ
は直接被災を受けた人にとっては、被災の生々しさが少しでも薄まり、慰藉につなが
ることではあるだろう。だが、例えば土台が夏草に隠れ、以前はどんなさまだったか
想像しにくいところに立つ時、なぜか、すべてが遠のき、震災の悲しみさえ風化してし
まうのではないかという不安に駆られるのも事実なのである。「あって無い町」、それ
は作者の脳裏にだけ焼きついている、かつての懐かしい町である。その町を燕ととも
に探し飛んでいる作者の姿が見えてくる。しかし、この句は、大震災という非日常的
な出来事を抜きにしても鑑賞可能できる。つまり、実際に今も家並みが立ち並んでい
る故郷としての町である。私の生地も同様だが、半世紀以上前の懐かしい町並みは
多少の変遷はあれ、そのままだ。しかし、それは自分を育んでくれた町ではけっして
ない。自分が育った家庭や家族は、もう存在していない。ここでも町は「あって無い」
存在なのだ。だから、そういう場面を詠んだ俳句としても鑑賞できる。たぶん、大震災
という未曾有の悲劇を詠った俳句で普遍性を得ることが可能なのは、そうした読みの
多様性に耐え得る作品ということになるだろう。
揺れまいとして揺れてをり崖の百合 小野 豊
これは百合そのもののありようを直截に言葉で切り取った句である。山間でもいい
が、崖という設定から眼下に荒海が広がる場所の方が自然だろう。折からの海風に
揺れ止むことなく咲き続けている姿が眼に浮かぶ。しかし、この揺れ続けるさまは、
どうしても大震災の被災にあえぐ海辺の人々に姿に重なってくるのを断ち切ることが
できない。作者が被災地の人で、同じ土地に住む私が鑑賞するから、そうなるのだろ
うが、こうしたところにも大震災後の俳句の読みの困難さが横たわっている。
若葉あれは我ら蝦夷ぞ光るなり 篠原 飄
作者は埼玉の人、いや関西の人でもかまわない。かつて蝦夷やアイヌは列島あま
ねく偏在していた。地名を知れば了解できることだ。人間のみならず若葉もみな蝦夷
であるとの表現に自然人間合一の原初的な姿勢が窺われる。激励する俳句とは、ま
ず自らが力を貰うことに始まる。
蟻塚を跨いで帰れ故郷は 千田 彩花
蟻塚は日本では北海道、東北の山地に見られる。蟻が巣を作るとき掘り出したも
の。つまり、蟻の労苦の証。それすらも跨ぎ行くところに帰郷する若さがあふれてい
る。
|