昭和六十三年、鬼房翁六十九才の御作。
掲句の四句前に、同じ発想の「胸の扉を叩けば青き走り梅雨」(全句集)がある。この句
は「胸の扉を」故、胸にはすでに扉が存在していることになる。それを叩けば、走り梅雨に
なると感知。色彩感はあるが、上五「胸の扉を」の心象把握のみに酔ってしまった嫌いが
ある。が、掲句の場合「胸に扉が」の「に」により、前句同様心象に踏み込みつつ胸に扉が
存在することの発見、さらにそれがいくつもあることを突き止め、感覚している。
現在でこそ、例のアニメ「ドラえもん」の「どこでもドア」的発想が定着しているが、この当
時を振り返ると、胸に扉を発見した詩的着眼は深く鋭い。また扉の字面と語音は単に瑣末
なドアや戸ではなく、意味的には装飾性や重厚感を伴う。しかもいくつもある扉の向うには
いくつもの空間、時間が存在することが容易に絵解き出来る。従って一つの扉ごとに別々
の異世界が想起され、どの世界へも自由に行き来可能な装置として感受される。そして土
用波。夏の土用の頃、幾重にも押し寄せる波のくり返しが、いくつも存在する胸の扉と共振
し、読み手の創造力を刺激、めくるめく異世界との絵物語を喚起して止まない。この季語
土用波との意外な配合こそが、一句を際立たせ多層性を呼び起し、詩情を豊かに彩る詩
的要因になっている。まさに俳句の醍醐味と言えよう。
(「豈」「山河」山本 敏倖)
土用波が立つ頃波止で釣りをしていたことがある。海は荒れているとは言い難く、長閑な
釣り日和であったが、突然目の先五〇メートルほどで海面が盛り上がった。大きく上下に
波打ち、一気に水球となって頭上から落下し、私の全身を濡らした。あまりにも突然だった
ので呆然とし、嗚呼これが土用波というものかと納得した。
〈胸に扉がいくつもありて〉と鬼房先生は詠んでいる。胸の扉を開けてみれば、人生は方
途もなく、井戸の暗闇を覗くようなものである。様々な思いが潜んでいる。未消化な過去の
残滓、清算しきれない禍根、愁嘆や悲哀、そして人生への希望など。まるでパンドラの箱で
ある。人間は、複雑多岐な心理の不思議を抱えて生きている。この不思議は心の中の扉
の奥に普段はそっと仕舞われている。
出来れば胸の扉は開けないでいたい。究極人が求めるのは魂の静謐である。生きると
言うことは、自ら気持ちの奥底へ問いかけることの連続である。人は自分自身の存在を確
かめながら生きてゆく。その間に多くの扉も作られる。
句は〈土用波〉で結ばれている。季語としての土用波だけではなく、心に受ける不意なる
一撃を言われたのではないだろうか。人間の内在する心理を〈胸に扉がいくつも〉と言われ
さらに〈土用波〉とも表現された。句はさりげなく詠まれているだけに、深層へと広がりを見
せている。
(森田 倫子)