2013 VOL.29 NO.340 俳句時評
時評で時代を捉える
渡 辺 誠一郎
毎月、雑誌が届くと真っ先に開くページがある。『俳句四季』に筑紫磐井が筆を執る「俳
壇観測」と川名大の連載「現代俳句史」である。これらは、俳句の動向を現在と歴史の両
輪のなかで捉える貴重な視点をいつも提供してくれる。
この度、筑紫の「俳壇観測」が『21世紀俳句時評』(東京四季出版)として刊行された。平
成15年1月号にはじまり、25年1月号までの10年間、120回連載したなかから、81編を
選んで一冊にしたものだ。連載は現在も続いており、この8月号で127回を数える。
「ほぼ21世紀を観測した」と筑紫が述べるように、俳句世界の動向を、時代の空気のな
かで捉えようとする時評である。毎号、著者が何をテーマに取り上げるのか、その内容に
はいつも注目している。課題の整理と把握の手際の良さにも感心させられる。俳壇の世情
に疎いところにいる身には有難い連載である。
俳句時評は俳句論であるとともに、時代への認識を明らかにするものでなければならな
い。筑紫はこの著作の最後の項で、現在の俳句の世界が置かれた状況を次のように課題
別に整理して見せる。
・東日本大震災と俳句
・世代交代
・雑誌の興廃
・戦後生まれ以後(『新撰21』世代)の登場
・俳句部品(季語・切字)論争
・新しい詩と伝統詩
内容は別にしても項目だけを見てみると、「東日本大震災」と「戦後生まれ以後」を除け
ば常に論議されて来ているもので新しいものではない。それだけ課題はいつも変わらない
のかもしれない。
気になると言えば、一つは「東日本大震災と俳句」についてである。筑紫は次のように述
べている。
「長谷川櫂の『震災句集』・御中虫の『関揺れる』のような主題的な取り組みが評価される
のか、小原啄葉の『黒い浪』・照井翠『龍宮』やまだ句集を上梓していないが高野ムツオの
ように被災地域の俳人が生活の中で詠む俳句が評価されるのかはまだ分からない。」
そのどちらでもないかもしれない。主題的な取り組みでなく、日常の延長で震災を捉える
事だって可能なことだ。さらに被災地に住んでいなくても構わない。被災地の俳人にしか震
災句を詠む「特権的」な立場があるわけではない。被災地にいても直接生死の境に直面し
た人もいれば、そうでない人もいる。さまざまである。原発事故による放射性物質の飛散
の地域を見れば被災者は限りない。そして言葉にならないものが時間をかけてゆっくりと
俳句のかたちになることもあり得るだろう。
同時に近頃は「被災地」とそれ以外の地域との「意識の差」が気になっている。「被災地」
の方では今なお震災俳句が数多く詠われている。それは俳句の世界に限らない。先日も
東北の書家が作品を寄せる「河北書道展」に足を運んだのだが、近代詩文の多くの書家
たちが震災詠の俳句や短歌を取り上げている作品を観ることができた。東北にとって、東
日本大震災は今なお「現在」のことなのだと思う。被災地の復興がなかなか進まず、原発
事故が一向に収束する兆しが見えないなか、これからも震災は、東北における表現の世
界のなかでは大きな「躓きの石」になっていつまでも残り続けるのだろうか。今後も一人ひ
とりが内向を深めながら時間をかけて向き合わざるを得ないと思われる。
一方近頃、〈復興需要〉の言葉にかけて、「震災俳句需要」なる言葉を耳にした。「時代の
波」に乗る一部の話は別にして、多くの俳句愛好者は率直に震災に向き合っている。そし
て、俳句はささやかではあるが、一人ひとりにとっては確かな表白の手段として、かけがえ
のないものになっているに違いないと思われるのである。
もう一つ気になるものは、「雑誌の興隆」である。特に「ブログ雑誌」の行方である。「ブロ
グ雑誌」は、特に若い世代の活躍の場、あるいは俳壇に登場する足掛かりの場となってい
る。筑紫は「戦後生まれ以後(『新撰21』世代)の登場」の項の中でも触れているが、「歴史
を振り返っても、新しい作家の登場には常に新しい器が望まれている。」であるから特に目
が離せない動きである。
このような状況のなかで、従来のような総合雑誌、あるいは結社誌の役割がどのように
変質していくのかは注視する必要がある。少なくても結社の閉鎖的な枠組みは緩やかにな
り、垣根は低くならざるを得ないだろう。総合雑誌はどうだろう。紙媒体から電子化への動
きの波も合わせて従来のような姿は変化を余儀なくされるだろう。近頃は電車で新聞を広
げる光景があまり見かけなくなった。新聞や雑誌の世界の電子化の波は、われわれの予
想を越える勢いで身近なところまで押し寄せている。
同時にこの新しい情報手段の変化と広がりは、若い世代に限ったものではなくすべての
世代に及んでいるのだ。
いずれにしても、世代の交代の変化とも呼応して、俳句の世界の大きな変化の要因にな
ってくることには間違いはない。しかし超高齢社会が当分続く限りは、高齢俳人と若い俳人
とのいい意味での鬩ぎ合いが続くだろう。
しかし時代はいつも不透明である。最後に筑紫は次のように結ぶ。
「やはり俳人はつぎつぎに更新されて行く必要があり、新しい世代を呼び込めない文芸ジ
ャンルは滅ぶしかない。その意味で前述のように新しい世代が登場していることは俳句に
とって希望である。しかし、新しい世代の活躍する環境が十分用意されているかどうか、雑
誌や季語の問題などは若い世代の今後を拘束するがそれを老人たちがすべて決めてしま
っているのは問題である。国際化も含めて、次の世代で活動する者たちが決める余地を
残さなければならない。」
その通りだと思う。いつだって世代の「対立」を新しい時代の変化のエネルギーとしてき
たのは、子規の時代を見ても明らかである。その対立の中で新しい時代を切り開いたの
は、旧来とは違った別のステージに立った世代がいたからだ。それゆえ若い世代に期待したいと思う。
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