塩釜の浦を望んでの句と言われている。塩釜の浦と言えば源融の伝説が有名であり、
平安人の好んだ歌枕である。都にいて遠き陸奥の浦に思いを馳せた平安人とは逆にこの
句は、陸奥の地にいながら京の東にあるという佐保山の女神を思い浮かべている。佐保
姫とは、春の造化を司る女神であるが、「佐保姫の糸そめかくる青柳を吹きな乱りそ春の
山風 平兼盛」(『詞花集』)と詠まれており、染物や機織を司る女神でもある。また、「佐保
姫の霞の衣ぬきをうすみ花の錦をたちやかさねむ 後鳥羽院」(『後鳥羽院御集』)とも詠
まれ、佐保山にかかる春霞は佐保姫の織り上げた薄衣であると想像されてきた。さて、こ
の句の佐保姫はどんな女神だったのであろう。きっと若く美しい乙女であろう。裳裾といえ
ば、万葉の時代は赤である。平安の時代には海浦などの文様を施したらしい。高台に立ち
塩釜の浦を見渡せば、沖にうっすらと霞がかかっている。夕日が射してほんのりと赤く染ま
っている。見慣れているはずの塩釜の沖に佐保姫が舞い降りたのだ。目を離せば消えて
しまうかもしれない光景を近づこうともせず、ただ眺めている。作者には、佐保姫が歌に詠
まれた時代も佐保山という土地も姫といわれるような乙女も遠く遠く感じられたことだろう。
夕日が傾くにつれて赤い裳裾が少しずつ広がってゆく。やがて、全ては沖に消えてしまうの
だけれど。
(「未来図」篠崎 央子)
「佐保姫」は、古典にも取り上げられているほど、春をつかさどる女神として有名であり、
「佐保姫の裳裾」は多くの短歌や俳句に詠まれている。鬼房先生は二歳の時釜石から塩
竈に移り、戦争を体験したのち再びこの地を離れることはなかった。身近に見える塩竈の
海は自分の体の一部のような存在であったのかも知れない。
早春の海の遥か沖の方に立っている白波を、春の訪れを告げる佐保姫の裳裾のように
ひらひらと揺れているなあ、と目を細めて眺めていたのだろうか。詩人の目には裳裾の色
はさながら桜のはなびらのようでもあり、やがては微笑を浮かべた佐保姫が姿を現しこち
らに向って近づいてくるようにも見えたのではないだろうか。「遠眺め」という表現からは、
想像の世界に遊びながら飽かずに眺めている様子が窺える。
最晩年の句集『幻夢』には〈妄想を懐いて明日も春を待つ〉があり、病床にありながらも
佐保姫の裳裾の景を思い浮かべながら、日々春の訪れを待ち侘びていたのだろうか。で
も残念ながらその日を待たずに〈翅を欠き大いなる死へ急ぐ蟻〉の句を残して2002年1月
19日、82歳で逝去された。私には佐保姫の裳裾にやさしく抱かれて逝かれたのではない
かと思えてならない。
(大久保和子)