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 小熊座・月刊 
  


   2013 VOL.29  NO.343   俳句時評



         『異執』の世界

                              矢 本 大 雪


  だいぶ時間は経ったのだが、大沼正明氏から送られてきた句集『異執』について語ろうと

 思う。本人に何処かで
会ったことがあったのかどうかも記憶にないのは情ないのだが、句

 集のもたらした刺激にはたっぷり触発された(と
思い込んでいる)。まず作品を紹介してお

 こう。

   園児すでに旅人シーソーに日と月    大沼 正明

   小さな天の尻餅のような文鎮ください     〃

   テキ屋きて社会の窓からいわし雲       〃

   刑場ちかくの臓器市場ちかくの綾取り     〃

  これらの作品に関して、何かものを言おうとすれば、自分が如何に貧困な言語と感性と、

 俳句観しか持ち合わせて
いないのかを思い知らされる。それが実に心地よい。まず、新鮮

 さを飛び越えて新奇とも思えるほどの句の言葉に驚か
される。どこか俳句はこんな言葉を

 用いてもいいのかとい
う、謂われない罪の意識さえも感じる。では、俳句には使用を禁じら

 れた言葉があるのだろうか。「ない」と言下に
応えたいのだが、差別を容認し、助長する表

 現は自粛すべ
きぐらいの常識しか持っていない。

  そもそも俳諧は発生の段階で、伝統的な和歌の表現への挑戦的な意味を持っていたは

 ずであり、それまで雅語・和
歌用語だけで表現されたところへ、俗語、漢語、流行語などを

 取り入れたのが誹諧(俳句の前身)の特徴であった。
とすれば、俳句とは、常に新表現を

 模索してゆくべき運命
に身を委ねたと理解すべきだろう。それならば『異執』のやや過激な

 作品はなんら驚くに当らない。この句集にちり
ばめられた俳言を少し列挙してみよう。コー

 ラ缶、生理、
文京区、ハシッシュ、借り精子、ドナー、検尿カップ、ホームレスなど、まだま

 だきりがない。しかし、実際のと
ころ、私はこれらの言葉に衝撃を受けてはいなかった。現

 代俳句を多少でも読みなれれば、これらの言葉に似たものにはどこかで出会っている。ま

 た短歌に関して言われたこ
とだが、正岡子規の「(短歌の)用語は雅語、俗語、漢語、洋語

 必要次第用うる」という言葉はまさに現代俳句に
そのまま当てはまり、突飛な印象はない

 のだ。ただし、こ
れらの言葉の使用のされ方、表現となると別である。

   
検尿カップの潮位にぞ日々の凡夫    大沼 正明

   羽化まえのエノラゲイなら指でつまむ     〃

   ンゴロンゴロで論語とごろんとしていたし   〃

  これらの作品から印象されるものを大沼の文体と見れば、この文体こそが、既成の俳句

 と少なからぬ距離を隔て
ている(時には言葉遊びに見えることすらあるが)からこそ新鮮な

 のだ。そして、私自身はけっして出来ない表現
だと分かっているからこそ、まぶしいのだ。

  現代俳句は、時代を真摯に反映し、さらには先取的な表現で時代をリードしてゆく役目を

 負っている。むしろ役目
に忠実すぎたのが『異執』の表現なのだろう。とはいえ、多くの俳

 句作品が織りなす世界から跳躍し、ひとり独自な
表現を世に問う勇気は清々しい。作家に

 は本来、既成の表
現を駆使しながらも、全く新しい表現や工夫に挑戦したい欲求は背中あ

 わせのように持ち合わせているものなのだ
が、実践となると、冒険・実験にどっぷりと浸る

 ことには
逡巡を覚えてしまう。一歩踏み出すためには、それが自分の文体なのだという、

 過剰なくらいの自負が必要になる。その自負が大沼には見える。自らの人生がこの文体を

 産ん
だのだという自負。大沼の俳言に目をみはるのではなく、その文体にこそ瞠目しなけ

 ればならない。

  少し誤解を生みかねない論調を展開してきたが、作家の多くは、一句の世界を生み出す

 ために、文体も用言も工夫
するのであり、初めから俳句という形式を揺さぶるための挑戦

 をしているとは限らない。例外はあろうが、自らの欲
求に従った結果があらたな表現を生

 み出すのだ。『異執』
も同様だと思う。しかし、いつの時代も、作品に難解さはつきまとう。

 ただ難解との評価は作品の否定を意味しない。

  俳句の短さは、メッセージや考えを伝えるには不向きであろう。そんな難解さがある。そ

 してやっかいなのは、そ
れでもメッセージを伝えようとしながら、表現方法が稚拙な場合も

 また本人の主張・考えが未成熟のまま書き出さ
れている場合も、難解に映る。大沼作品の

 難解さはそれで
はない。メッセージの伝達などは念頭にないのだ。俳句という形式に自ら

 の言葉を委ねながら、表現の可能性を遊び、確かめるような自由さ、奔放さが感じられる。

 俳句と
いう枠に閉じ込められた形式だからこそ生まれる言葉と、さらに、言葉にならぬ「沈

 黙」の部分との織りなす世界の可
能性は、非常に意識的で冒険的ですらある。

  俳句という形式は常に新しい血を必要としている。百年後、二百年後の長い時間に、自

 らの評価を託す度量を俳句
は持っている。同時代の読者に認められることは、理想かもし

 れない。しかし、それはいつしか忘れ去られることに
性急になっているのではなかろうか。

   〈文体〉とは、思考と感覚が世界〈外界と内面〉を捉えようとするときに生み出すリズムの

  ことである。

   大沼の姿勢が一貫しているのは、彼の思考と感覚とが、独自のリズムでもって世界を

  捉えようとするとき、確かな手応えと快感を覚えるからだ――私はこう信じてきた。だが、

  『異執』を読むと、大沼は、状況がもたらすかなり厳しい風圧のなかに置かれているらし

  い。そこで、今はこう付け加えるべきではないかと思うようになった。『異執』の尋常でない

  文体は、即ち思考と感覚とがつくりだす尋常でないリズムは、かかる風圧に耐え、それを

  ちょっとでも押し戻すために、欠かせない防御の武器として、大沼の手に残されているの

  ではないか、と。

   生き延びるために、ただ生き延びるために、必要とされる文体が、そして、俳句がここ

  にある。


  江里昭彦のこの一文は、最大の理解と賛辞であろう。





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