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 小熊座・月刊 
  


   2014 VOL.30  NO.344   俳句時評



         戦時下の『仙台郷土句帖』

                              渡 辺 誠一郎


  面白い翻刻本を手にした。昭和十六年の十二月に創刊された『仙台郷土句帖』(以下

 『句帖』という)である。しかし、今は地
元仙台にあってもこの『句帖』のことを知る人は少な

 い。

  『句帖』は戦後まで刊行されるが、主に先の大戦下で、仙台弁を使った俳句を集めた句

 帖として、慰問のために戦
地の将兵に届けられたものだ。さらに傷痍軍人療養所、軍の病

 院、在外の県人会などにも、五万三千部が寄贈された。
今回の翻刻は、一部欠落はある

 ものの、昭和二十一年二月の
十四輯までに掲載された1,250句が収録されている。

  発行は仙臺郷土句会で、発行人は、仙台で創刊された、わが国初めての童謡専門雑誌

 といわれる『おてんとさん』
の創刊・発行人の一人である天江富彌(明治三十二年〜昭

 五十九年)である。天江の名前は、仙台では伝説的居
酒屋、「炉ばた」の店主としてよく知

 られている。私もここに
は何回か足を運んだことがあった。店の中央に敷かれた畳の上に

 端坐し、旦那ぶりで接客する姿を思い出す。天江は
仙台の天賞酒造に生まれる。明治大

 学専門部在学中から、
こけしの研究をはじめ、童謡の作詞、そして竹久夢二の作品の収

 集に没頭する。やがて、童謡詩人のスズキヘキと出会
い、児童文化の世界で活躍を見せ

 る。天江は地域の文化文
芸活動に尽力したその功績により、昭和五十七年には河北文化

 賞を受賞している。

  今回の翻刻は出版史研究家である渡邊愼也氏によるものだが、序に天江による発行の

 趣意を次のように載せている。

  「銃後の私として何か適当な慰問法はないものかと考えた結果、紙、印刷等極度に不足

 な戦時下とて、句の形式で
郷土情緒を盛り込んだ仙臺郷土句帖なるものを創案。郷土

 身の著名人を動員し、川柳人、俳句作家の応援を仰ぎ、郷
土将兵に贈る『仙臺郷土句帖』

 を発行、戦地に届けた」。

  『句帖』は白石和紙や更紙に印刷され、年数回刊行された。天江らの活動は『句帖』の発

 刊にとどまらず、慰問
会、仙台三越での郷土句展、郷土句移動展、東京や仙台で数十回

 にわたる郷土人懇親句会、十数万部にわたる慰問用
郷土句絵葉書の発行などに取り組

 む。『句帖』の刊行は天
江の死後も平成十三年、三十八号まで続く。

  寄稿者は、東京在住だが宮城県出身の詩人白鳥省吾や同
じく随筆家の相馬黒光の顔

 が見える。地元からは河北新報
の川柳欄の選者でもあった浜真砂(夢助)をはじめスズキ

 ヘキ。その他、白石城の一六代当主片倉信光をはじめ政治家、軍人など。地域は仙台・

 宮城が多いが、満州、朝鮮か
ら北海道に及び、三百名をこえる。だが俳句としながら、

 稿者のメンバーをみると、当時の仙台における俳句の世
界でもっとも知られていた『駒草』

 を主宰していた阿部み
どり女らの名前は見えない。参加者は天江が知り合いに呼びかけ

 たこともあり、俳句とも川柳ともいえない作品があ
る。季語のないもの、季語への意識が希

 薄なものも多い。

  作品を見てみる。巻末にある略解を参考に方言などの説明を添える。

    日盛りやベーゴの涎長がすつを       白鳥 省吾

       ベーゴとは牛。涎がながいと。

    ぽとさけたお国訛りのほととぎす       相馬 黒光

       時鳥は「ぽとさけた」鳴くと言う昔話から。

    萩昏き垣で別れぬ「お明日」         天江 富彌

       「お明日(みょうにち)」―仙台弁のさようならの意。

    たか馬でなめたたろひの月のいろ        同

       竹馬に乗って月色の氷柱を舐めた。

    ヒコケエンケエンの児に夕焼ける北目町  スズキヘキ

       道に描いた図を片足跳びで遊ぶ様子。

    雪国に生れ無口に馴らされる        濱  眞砂

       濱の代表句とされる。

  戦時下の状況を直截に詠ったものでは、

    八八幡(やはちまん)かけたかへりは蕗の薹摘(ばつけあつ)み   枡形 喜夫

       出征家族が八か所の八幡社のお札を戦地に送った。

    御本丸の銅像お召しと春うわさ       丹野寅之助

       仙台城の政宗騎馬像が金属拠出になる話。

  昭和二十一年の敗戦後の句。

    
やけのこるキビチョ取り出す夜氷哉     佐々木三七

    おがらせてごせぱらやげるヒマの種    摩耶美呂近

    敗戦は言わずに母の夜わり哉       南  谷子

       キビチョは急須、ヒマ種は航空燃料にしたものの、敗戦で役立たず腹が立ったと       
       の意。

  いずれも方言が醸し出す生活臭や庶民性が句の特徴といえる。内容も仙台地方の四季

 折々の行事や風習、戦時下特
有の風俗が表現に織り込まれている。しかし、いずれの句

 からも、仙台弁という言葉が醸し出す光景が戦時下の緊張感をどこか裏切っているような

 印象を抱かせる。五七五の
リズムを方言が支えると、粘着性のある不思議な光景を見

 る。それは仙台弁の土俗的な働きが、作者の心象を捉え
る確かな強さとなって表れてくる

 ように思えるのだ。

  この『句帖』を受け取った戦地の兵士らが、故郷の風俗や方言のなつかしさに顔を綻ば

 す姿が浮かんでくる。

  ところで、この時代をあらためて振り返ると、昭和十七年には、「国策の施行実践に協力

 する」として日本文学報告会
が発足する。俳人として水原秋桜子が理事に、俳句部会の

 長には高浜虚子が、幹事長には富安賢次が就任していた。
短歌の世界では佐々木信綱

 らの選定によって「愛国百人一
首」が取り組まれた。他方、新興俳句運動の中からは、従

 軍俳句や戦火想望俳句が詠まれていた時代。山口誓子が「もし新興無季俳句が、こんど

 の戦争をとりあげなかった
ら、それはつひに神から見放されるときだ。」と述べたのはよく

 知られた話。しかし、昭和十五年には「京大俳句」
の同人らの検挙が始まり、自由な表現

 が制約されていく時
代でもあった。地方の文学の世界にも戦時下の影は及び、仙台にお

 いても詩人グループから三名が検挙されている。

  『句帖』の刊行は、国策・官制とは異なり、あくまでも天江の個人的な思いによって取り組

 まれ、その資金も民間
の後援によるが、やはり当時の国策の大きな流れに沿ったものだ。

  しかし、この『句帖』のことは、近頃刊行された『東北近代文学事典』のなかでは取り上げ

 られていない。文学の
世界からはみ出ているからか。翻刻者の渡辺は、資料性の高さか

 ら「仙台の記憶文化財」であるという。戦意高揚を
目的としながらも、郷土の風物と方言を

 五七五にした試み
として、さらには、民俗、風俗の資料として意義は高い。それゆえ、今日

 の我々が、あらためて『句帖』を紐解くこ
とは無駄なことではないように思えるのだ。





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