2014/1 bR44 小熊座の好句 高野ムツオ
みの虫は鬼の子というみんな鬼 佐々木とみ子
「蓑虫」は〈蓑虫の音を聞きに来よ草の庵 芭蕉〉や〈蓑虫の父よと鳴きて母もなし
虚子〉などを挙げるまでもなく、古来、好まれてきた俳人好みの題材である。理由は、
いろいろあろうが、そのはかなげな姿に加えて「枕草子」に語られている次のエピソー
ドが人口に膾炙しているせいであろう。その段を労をいとわず抜き出してみる。
蓑虫いとあわれなり。鬼の生みたれば、親に似てこれもおそろしき心あらむとて、
親のあやしき衣引き着せて、「いま秋風吹かむをりぞ来むとする。待てよ」といひお
きて、逃げて往にけるも知らず、風の音を聞き知りて、八月ばかりになりぬれば、
「ちちよ、ちちよ」とはかなげに鳴く、いみじうあはれなり
蓑虫は本来鳴くはずはないが、この話を踏まえて芭蕉も虚子も鳴くものという前提
で詠っている。いわば虚の趣向である。それでもリアリティ十分なのは、風に吹かれ
て揺れる蓑のさまが、捨てられた子のイメージに自然と重なるからであろう。
蓑を被った虫が鬼の子であるというのは、古来の伝承に基づいた考えから生まれ
た。「鬼」は元来「隠」の変化したものとされている。つまり、この世から隠れて
見えない存在が鬼なのである。「蓑」は「隠れ蓑」なのだ。秋田のなまはげが蓑を身に
つけているのは、それゆえである。異界に住むものの証なのだ。かつて東北は隠れ
た国であった。つまり、蓑に覆われた鬼の国だった。いや、津波禍や放射能禍が覆
い隠されつつある現在もまた、まさに鬼の国なのだ。掲句の「みんな鬼」という断定か
らは、鬼の子である蓑虫への憐れみだけではなく、そう自認することで、鬼と呼ばれ
虐げられることへの、ささやかだが、強靱な反骨の精神がこもることをはっきり感じ
取ることができる。小さきもの、見捨てられるものへの無心の愛も裏打ちされている。
おしまいのこおろぎの如目覚め居る 須崎 敏之
季語にすれば「残る虫」「冬の虫」だが、そうした既成の言葉に頼らなかったことが、
蟋蟀と一体化した作者の生命感を言葉に宿すことにつながった。
みな違ふ色を見てをり散紅葉 松岡 百恵
うつし世は湖の底ひの冬紅葉 太田サチコ
磊々とただ磊々と秋深む 阿部 流水
三句目は仙台秋保の磊々峡を連想するが、こだわることはない。大きな岩山が、
澄み切った深秋の青空の下に泰然と聳えているのである。
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