小 熊 座 俳誌 小熊座
高野ムツオ 佐藤鬼房 俳誌・小熊座 句集銀河星雲  小熊座行事 お知らせ リンク TOPへ戻る
 
  

 小熊座・月刊 
  


   2014 VOL.30  NO.346   俳句時評



         「観念」の冷徹さと持ちきれない重さと

                              武 良 竜 彦



  東日本大震災発生から三年が経ちます。被災地の苦難は継続中だというのに、東京を

 中心とした日本全体は詐欺的
浮かれ話に夢中で、早くも風化現象すら始まっています。

   
人皆あぢきなき事をのべて、いささか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日重な

  り、年経にし後は、言葉にかけて言ひ出づる人だになし。

 これは有名な鴨長明の『方丈記』の一節です。災害直後は自然の巨大な力に対する人間

 の無力を語り、本質的でない
ことに心を濁していたことから覚醒したかのようだったのに、

 「年経にし後は」震災のことなど話題にする人もいないと冷静に批判しています。この『方

 丈記』が、東日本大震災後によく読まれた本の一つだという報道がありました。
「ゆく河の

 流れは絶えずして、しかももとの水にあら
ず」という有名な書き出しのために、無常観

 の随筆とも言
われていますが、実際は写実的描写と冷徹な批評眼で書かれた随筆です。

 長明が生きた平安末期から鎌倉初期にかけ
ての文学は、雅びの文化の伝統で、現実的

 な問題を直截的
に書き表すのは、はしたないことであるというのが常識でした。そんな中で

 こんな文学を創造したのです。そればか
りでなく、養和の飢饉の章の次のくだりのように、

   京のならひ、何わざにつけても、みな、もとは田舎をこそ頼めるに、たえて上るも

  のなければ、さのみやは
操もつくりあへん。

 と、京の生活がすべて田舎の生産を頼みとして成り立っていることを批判するような、冷静

 な視座を持つ文章で書か
れています。現在、都会で大量に消費されている電力がほとん

 ど地方の発電所で造っている構造と同じであり、そのことへの問題意識を八百年前の長明

 はすでに持っていたの
です。このような時空を超越した視座から、時代を総括するような

 「冷徹な観念」の在り方が、後世の文学者に深い
影響を与えました。堀田善衛の『方丈記

 私記』はその代表
でしょう。一九四五年三月十日の東京大空襲の直接体験を、大空襲か

 ら約四半世紀後に綴った随筆です。

   方丈記を読みかえしてみて、私はそれが心に深く突き刺さって来ることをいたく感

  じた。しかもそれは、一途
な感動ということではなくて、私に、解決しがたい、度

  いきびしい困悉、あるいは迷惑の感をもたらしたこと
に、私は困惑をしつづけて来

  たものであった。(略)満
州事変以来のすべての戦争運営の最高責任者としての天

  皇をはじめとして、その住居.事務所、機関などの全部が焼け落ちて、天皇をはじ

  めとして全部が罹災者.つま
りは難民になってしまえば、それで終りだ、終りだ、と

  いうことは、つまりはもう一つの始まりだ、ということだ、ということが、(略)一つの

  啓示のようにして私に
やって来たのであった。上から下まで、軍から徴用工まで、

  天皇から二等兵まで全部が全部、難民になってしま
えば。……

   人の営み、皆愚かなるなかに、さしも危ふき京中の家をつくるとて、宝を費し、心を悩ま

  す事は、すぐ
れてあぢきなくぞ侍る。

  
ここのところが、へんに爽快なものとして、きわめてさわやかな期待感を抱かせる

 ものとして私に思い出され
た。            (筑摩書房 一九七二年初版より)

  長明と同様、二十数年という時を経てから、日本人を永く拘束してきた事物と体制の崩壊

 を、突き放した視座で描
いています。人を縛る時代的価値観を無化し、その壊滅的崩壊か

 らの精神の解放を語る、この二つの文学の「観念」
は冷徹です。それは文学的批評性の

 温度です。

  一方、震災体験の風化を厭う私たちの文学的感性と「観念」は、まだ慟哭の質量感の中

 で立ち竦んでいます。
例えば照井翠氏の句集『龍宮』。その「あとがき」。

  《これは夢なのか? この世に神はいないのか?》

  《自分自身すら見失いかけていた私は、自らの「本当の物語」を再構築し、「本当の

  自分」を捉え直す必要を強く感じました》
                (角川学芸出版)

  「この世に神はいないのか」という言葉は、剥き出しの観念語です。この句集の時間を生

 きた作者の思いの中に置
かれたとき、その「観念」は体温の残る質量を纏います。


  
 春の星こんなに人が死んだのか  照井  翠

   三・一一民は国家に見捨てらる     〃

   なぜ生きるこれだけ神に叱られ     〃


  収められた俳句も、非常時の現場を、当事者として生き
た俳人の息遣いそのままの「生

 の観念」が覆っています。


  
 泥の底繭のごとくに嬰と母      照井  翠

   双子なら同じ死顔桃の花         〃

   寒昴たれも誰かのただひとり       〃

   空蟬のどれも己に死に後る        〃


  そして、持ちきれないほどの重さと体温を湛えた俳句が
生み出される現場に、私たちは

 立ち会い、この質量感と体
温こそがかけがえのないものであるという共感の中にいます。

 剥き出しの観念語が文学表現の中で有効なのは、言
葉自身が独自の重力を獲得したとき

 だけであることを、改
めて噛みしめているのです。

  それが震災体験の風化に抗う唯一の方法であると。

  そして同時にこうも思うのです。前半で引用した鴨長明や堀田善衛のような、時空を超え

 た「冷徹な観念」をもっ
て、私たちが私たちの「方丈記私記」という「文学」を生み出せる日

 が、いつかくるのだろうか、と。




                          パソコン上表記出来ない文字は書き換えています
                     copyright(C) kogumaza All rights reserved