鬼房の秀作を読む (42) 2014.vol.30 no.346
金借りて冬本郷の坂くだる 鬼房
『名もなき日夜』(昭和二十六年刊)
「金借りて」の軽い切れの後に、唇を突き出すようにして発音される「冬」の一語が挿入さ
れる。そこで句はまた一瞬途切れ、「本郷の坂くだる」となだらかに続く。金を借りたことに
よって、否応なく冬を意識せざるを得ない状況になったことが、唐突とも思える「冬」の一語
に込められている。そうして寒空の下、風に吹かれながら坂を下っていく。ぎこちないリズ
ムが暗く寂しいイメージを増幅させるのだ。
鬼房は、昭和十二年七月(十八歳)、「東南風」同人になったのをきっかけに上京する。
以下、年譜(『名もなき日夜』南方社)によれば、「東南風」同人村井恵史の下谷の店に入
居。翌年一月には、小石川白山御殿町の村井の友人宅に寄寓。日本電気臨時工として就
職。三月、七月と転居し、九月失意帰郷。この年「句と評論」廃刊。後に「広場」同人の勧
めあるも経済的事情で不参加とある。
掲句は、「昭和十三年一月 小石川白山御殿町に流寓 二句」の前書で〈職むなしく夜景
に追はれ寝まるかな〉の次に置かれている(南方社版)。職を求め、住居を転々としながら
も、文芸に対する熱い思いと高い志を失うことは決してなかった。昭和十四年(二十歳)に
は、「詩人界」第一回新人詩コンクール賞を受賞。しかし、翌十五年一月入隊。傍目には
下り坂と思われる時期が続くのである。
(鶴岡 行馬「鷹」)
鬼房が東京に出て、日本電気本社の臨時工であった十九歳ころの句といわれる。「金借
りて」という直載ないい方は、鬼房の後の魂を揺さぶるような句を知る者は、鬼房らしくない
とまずは思う。日本電気という大企業の当時の臨時工の暮らしは、その後すぐ失意のうち
に帰郷したことから、容易なものではなかったことは確かだ。しかしその貧であることを単
に嘆いている句でもない。
本郷といえば、樋口一葉がたちどころに思われる。彼女は本郷菊坂を通った。貧乏に追
われ、一家の糊口のために書き続けて名作を残した。「今にわれも……」そんなことを胸
に、坂を下ったのかも知れない。しかし、何故、有名な「菊坂」としないで、単に「本郷の坂」
としたのだろうか。
「本郷」なる地名は、日本の「選民」をイメージさせる。「賤民」としての鬼房は、二者の対
比を揚句に秘めていたのではないだろうか。この屈折は、帰郷してからの句にも見られ、
後に社会性俳句作家としての出発となる、第一句集にある「切り株があり愚直の斧があり」
へと続く。本郷の坂を下った敗北感はやがて、「斧」となって、しかも「愚直」で居ようという
のだ。自らを「愚直」と称するのは強き人。そう言わせるほどに、貧困と差別をくぐり、戦争
の理不尽を生き抜いてきた人の若き頃、すでにある決意のようなものを揚句より感じる。
(瀬古 篤丸)
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