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2014/8 №351 小熊座の好句 高野ムツオ
訣れ来て蛍蛾のゐる道路鏡 増田 陽一
「訣」の字の初見は、宮沢賢治の詩 「永訣の朝」 による。まだ高校生であった頃
だ。似たような漢字に「決」があり、「決別」など別れの意味の言葉としてなじんでい
たから、最初は少し違和感があった。しかし、「決」は覚悟する、判断するという意味
で、別れという意味は付随したものである。白川静の『字統』によれば、「夬」は刃物
をもってものを切断し、えぐりとることを指し、それに氵つまり川が付き、洪水などで
堤防の一部を切り取るなど重大な決断をするということから「決」は決心などの意味
に用いられるようになったようだ。「訣」は、ものを分離するに、言葉をもって行うこと
である。つまり、言葉を発して別離するという意味になる。
掲句は相手が死者であるか生者であるか、明言してはいない。が、私にはどうし
ても前者に思えてしかたがない。生者との別れは無言との、たわいないこだわりの
せいかも知れないが、それ以外にも理由はある。それは出会ったのが螢蛾で場所
が道路鏡であるからだ。螢蛾は、別れが死者とのものであることを暗示する。螢蛾
は体長が三センチ程度、飛ぶのは主に山間の昼間。だが、近年は住宅地にもよく
現れる。真っ黒な前翅の先端あたりに太い帯状の白線があり、それらが喪服を連
想させる。加えて頭部が赤く、それで蛍の擬態と言われていることが極めつけだろ
う。名もそれに由来する。和泉式部の歌を引用するまでもなく、蛍は人の魂の譬え
だ。つまり、螢蛾は永訣してきたばかりの人の生まれ変わり、いやその擬態と作者
には思えたのだ。場所が道路鏡であったというのも、さらに暗示的。鏡は彼岸此岸
の出入り口である。道路もまた彼岸へ続くものであるのは指摘するまでもない。「道
路鏡」という無機質な言葉が、詩の言葉として、これほどの重みをもった例を他には
知らない。
初夏は波音ばかり麦粒腫 土屋 遊蛍
麦粒腫、通称ものもらい。十代に患った人は多いだろう。「ものもらい」とは、元々
乞食を指すが、「もの」は物の怪にも通ずる。何か得体の知れないものにとりつか
れながら初夏の海を眺めているのだ。
ががんぼのいづれが亀之助なるや 永野 シン
尾形亀之助。宮城県大河原出身のデカタン詩人。そのひ弱と過敏さは、まさにが
がんぼである。
顔黒の一句を遺し雲の峰 遅沢いづみ
顔黒は亡き古山のぼるが好んで用いた現代風俗。
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パソコン上表記出来ない文字は書き換えています
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