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2014/10 №353 小熊座の好句 高野ムツオ
行く夏のからとむらひか沖に船 栗林 浩
東日本大震災から三年半が過ぎた。この間、復興が声高に語られ、瓦礫撤去や
整地、建造物再建もそれなりに進められてきた。これに景気昂揚との威勢のよい
掛け声も加わって、ともすると、震災からの復興は、もう果たしたのだという錯覚に
陥る人も多いようだ。しかし、それは情報社会がもたらす陥穽であって、例えば、津
波被災の沿岸部を垣間見るだけでも、復興はまだまだと誰もが納得するだろう。ま
して、目に見えない部分、例えば、一家庭、一家族の有り様やその未来への不安
や課題に焦点を充てれば、私も含め、当事者以外に入る込むことができない闇を
たくさん内包している。まして、汚染水の処理一つに未だ綱渡りの福島原発被災の
未来はまったく展望できないわけで、これ以上深刻化する可能性もある。ことに、精
神面の復興は、むしろ、より被災が深まりつつあるのではないか。
阪神淡路大震災から、二十年の歳月が経とうとしている。死者は六千三百余人で
あった。今夏、神戸を訪れる機会があって北野の異人館通りから街を見渡したが、
確かにどこにも当時の被災の様子を窺うことはできない。しかし、それは見えない
だけであってなくなったのではない。先日、明石市在住の友岡子郷さんからお便り
を頂戴したが、そこにも「よく『神戸は復旧した』と言われますが、自殺者数知れず、
孤独死七百名を超え、子どもにも精神不安定増加などを思うと、それは嘘。」とあっ
た。東日本大震災後もまた、人の心が抱える闇は、これからも長く、深く広まってい
くと覚悟しなければならないのである。そして、そのことに俳句はどう向き合うことが
できるか。課題はあまりにも大きくて重い。
句の鑑賞に関わりのないことを書き連ねたように見えるかも知れないが、掲句も
そうした問題意識をもって生まれた作品であると感じたので、あえて書かせていた
だいた。
「からとむらい」は空葬と表記する。死体の発見されない死者のために仮に行う葬
式のことである。一般には、漁を始め船の事故で亡くなった人の葬式であろう。しか
し、ここでは作者は船に乗っているのではない。遠く沖に浮かんだ船を眺めながら、
もしかしたらと奥歯を噛んだ時の句だ。沖の船が空葬の船か、観光の船か、あるい
は他の目的があるのか、普通は区別できない。それでも空葬と判断したのは、眺
めていた海が被災地の海で、作者の心の中に、この海で亡くなり、未だ戻らない遺
体への深い追悼の思いがあったからである。
東日本大震災以降の震災をテーマにした俳句の今後が問われている。この句は
その問いへの一つの答えを示しているとも思える。問題なのは何を見ているかでは
ない、どう見ているかである。金子兜太が、このところ強調する言葉に従えば、どう
映像化するかである。むろん、見るためには眼玉はもちろん五感、五体すべてを動
員して、そして、その血肉化した言葉によって映像化するということである。
戦争をくぐりて目玉夏に入る 渡辺誠一郎
この句は戦中戦後という八十年前後の時間のスパンを捉えた句である。ここでも
強調されているのは見ることである。その眼の奥には常に戦争という地獄が据えら
れてきたのだ。その眼に幾多の人間の生死をとらえ、そして、また新たな八月を迎
えるのである。
夏の月兵の戦争逝きて熄む 阿部宗一郎
海霧襲ふ仮設の壇の位牌たち 野田青玲子
線香花火の閃きすべて魂の声 坂下 遊馬
炭住の闇の漆黒浮いてこい 清水 里美
「炭住」は鉱山労働者のための住宅。「闇の漆黒」という二重の暗黒がここでは効
果的。住いの岩見沢は石狩炭田の中心地である。
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