鬼房の秀作を読む (49) 2014.vol.30 no.353
むきだしの岩になりたや雷雨浴び 鬼房
『枯峠』(平成十年刊)
平成七年作。鬼房七十八歳。没年まで四年を残すのみ。掲句の「岩」を前にして、鬼房
の一文を想起した。「小熊座」平成五年六月号所載の「泉洞雑記97」「爪書き」の一文。
「(前略)私の俳句を言えば、地面に描く爪書きのようなもの。消えやすい砂地の場合も
あるが、概ねは岩肌だから爪は裂け血がにじむ。描いたものも永く残ることはないだろう
けれども、しかし映像として私の網膜に映りつづけるだろう。私の俳句は翼を失った鳥の
ようなものだ。つねに天空飛翔を思い上昇感覚を働かせながら、遂に飛べない哀しい存
在の個体。しかしこの永遠の飛翔願望が私を支える。(後略)」
鬼房、時に七十四歳。第十句集『瀬頭』が蛇笏賞を受賞。七十四年の実人生の全重量
をかけて「爪書き」を書いた。掲句の「むきだしの〈岩〉」は、この爪書きした鬼房の血のに
じんだものに違いない。苛烈・熾烈を極める「雷雨を浴びて」。決して健康体といえない肉
体をどこまで痛めつければ気がすむというのだ。鬼房の精神風土の原郷はどこにあると
いうのだ。この答えは「爪書き」の一文にあることを知る。遺句集 『幻夢』 所収の 〈ペガ
ソスになりたや雹に冷やされて〉 を併せ読み、早くも十三回忌を迎える鬼房を偲びたい。
鬼房の総体は益々増大し、色濃くなって来ている。
(坂内 佳禰 「河」 )
晩年の平成十年刊の『枯峠』所収の句である。『証言・昭和の俳句』の鬼房自選50句で
は、『枯峠』から、
帰りなん春曙の胎内へ/時絶つて白根葵に口づける/松の蜜舐め光体の少年
なり/鳥寄せの口笛かすか枯峠/あてもなく雪形の蝶探しに行く/北冥ニ魚有リ
盲ヒ死齢越ユ/恋に死ぬことが出来るか枯柏/観念の死を見届けよ青氷湖
を選んでいるが、この句はない。最後の「観念の…」の句と同位の観念の直接的な吐露
に近い句だから外したのか。
リアス式海岸の風雨に晒された無骨な岩に、自分の意志の在り処を投影し、「雷雨」を
浴びせている。さながら苦行の相である。「むきだしの」というからには、「岩」は恒常的に
埋もれ、抑圧され、隠されていたということだ。つまり日本の歴史という「時間」の中に埋
められ抑圧され隠されて蓄積した、表現主体の思いのすべてである。分厚い時間の層を
突き破って「むきだし」になったからには、鞭打ちの刑のように「雷雨」を浴びることを覚悟
しなければ、表現というものは成り立たない。俳句の中の「表現主体」は確立しない。この
「主体」は生身の「私」のことではない。俳句という言葉による作品の中に打ち立てられる
「主体」のことだ。それは「私」と誤解され混同されるが、鬼房俳句の「主体」はその俳句
の中に確立している。
(武良 竜彦)
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