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 小熊座・月刊 
  


   鬼房の秀作を読む (51)      2014.vol.30 no.355



         翅を欠き大いなる死へ急ぐ蟻          鬼房

                                      幻夢』(平成十六年刊)


   「大いなる死」をどう解するか。最近読んだ本『時間と自己』(木村敏著・中公新書)の

  「あとがき」にこの言葉が出て来るので引用する。

   「私は常々人間に関するいかなる思索も、死を真正面から見つめたものでなければ、

  生きた現実を捉えた思索にはなりえないのではないかと思っている。もちろん、この死と

  いうのは個人個人の有限な生と相対的に考えられた、個別的生の終焉としての死のこと

  ではない。生の源泉としての死、生が一定の軌跡を描いたのちに再びそこへ戻っていく

  故郷としての死、私たちの生にこれほどまでの輝かしさと、同時にまたこれ程までの陰鬱

  さを与えている包括者としての死のことである。私たちの生は、その一刻一刻がすべて、

  この大いなる死( ・ ・ ・ ・ ・)との絶え間ない関わりとして生きられているのであろう(以下

  略・傍点は筆者)」

   引用が長くなった。この原稿を頼まれた時すぐこの「あとがき」を思い出したのである。

  私もこの句の「大いなる死」をこんなふうに思う。まさにこの句の蟻は「大いなる死」との絶

  え間ない関わりとして生きているということ。死へ急いでいる時間こそが蟻の生きている

  時間であろう。

   鬼房先生のこの句から、人間の生と死についての、先生の大変深い洞察を、私は受け

  取っている。

                                      (中村 孝史「海程」)



   鬼房の俳句を読めば読む程に、俳句に沁み込んでいる鬼房の生命力が、弱者の一人

  である私の心を揺するのである。
鬼房は自分の俳句作法について、「・・生き難いくらしの

  叫びを(中略)動物感覚の叫びに類する痛みや喜びを、十七字に書き綴っているに過ぎ

  ない・・。(中略)叫びが叫びの極限でしたたかな仮像を結び、ときにはファンタジー、とき

  には滑稽、ときには荘重の趣きなどを呈すといった、きらりと光る美質にめぐりあうときが

  ある。・・私はそういう極限の美質にめぐりあうために、生活者イコール表現者としてこの

  言語表現に賭けるのだ。」さらに、「(ぼろのごと少年撃たるアヴェマリア)昭和四十四年

  作。私の生活、私の生活苦渋を書くということは、取りも直さず(弱者の心)を書くことでも

  ある。」(昭和五十五年 俳句の本Ⅱ俳句の実践より)

   掲句は句集『幻夢』の最終頁に記されている。掲句と〈暖かな海が見ゆまた海が見ゆ〉

  が並んでいる。見開きの左頁中央に「あとがき」。次の頁に「ありがとうございました。佐

  藤鬼房」と、やさしい眼差しをしている鬼房の写真。これだけで、掲句の説明は要らない。

   (大いなる死へ)鬼房自身こそが弱者として、命ある限り叫び続けて来、何の曇りもない

  俳句人生を振り返り、そして「静かに、燃え尽きた」のだと・・。

                                           (宮崎  哲)






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