掲句の眼目は座五にあり、といえる一句ではないでしょうか。句は、日常の母親の生活
を作者が情愛のこもった目で見てそのまま詠ったものです。
一般に親子や孫などの肉親を句にした場合、情が前面に出てしまい詩情性を欠くので
はないかと言われます。
しかし、掲句は情に流されることがなく、漁村の厳しい労働を終え、帰宅した母の姿を
見て、淡々とその所作を平明に詠っています。それが座五に詩情を持たせながら、作者
の詩想を表している一句になっていると思います。
それを私は次の語句で強く受け取りました。それは「燃す」です。ここに作者のこだわり
を感じます。「焚く」ではなく「燃す」というのです。漁村の労働で冷えた身体を温めるため
には、「焚く」では物足りなく、赤々と熱を発するための「燃す」でなければ母に対する感謝
や畏敬の念を表現することができないとの想いではないでしょうか。これこそ日本語でな
いと表現できない、または理解できない言霊になっているのではないでしょうか。
これだけで十分に作者の母に対する情愛を、句の裡に滲ませていることが感じとられま
した。表面上はあくまでも冷静に母の所作をそのまま詠うことに徹しているのです。
いかに作者が一字一句に心血を注いでいるかを表した多くの作品の中の一句ではな
いでしょうか。
(千葉 芳醇「黒艦隊」)
《魚臭き》で始まるこの句、作者佐藤鬼房一家の置かれる家庭情況がはっきりと呈示さ
れる。港町に居を構えた一家は、作者がまだ学齢に達したばかりの頃父を失った。翌日
から母は暮しを支えるべく立ち上がることになる。それは魚の行商であったろうか。少年
にとっての母は常に汗と魚臭にまみれ疲れていた。帰り来て、母は大急ぎで炊事を始め
る。竈に粗朶(小枝の類)を焚きつけ、夕食の支度をする。汗と魚臭の他に粗朶の煙の
臭いをも身にまとう母だ。そこには逞しく辛抱強い明治の母の姿が描き出されている。
さて、日本には古来「妹いもの力」というものが存在する。古事記の例を引くなら、日本
武尊にとっての伯母倭姫や妃弟橘姫がこれに当たる。つまり男性の活躍を蔭で支え続け
る女性の力である。妹の力あってこそ男達は檜舞台で活躍出来たし、女性達はまたそこ
に生き甲斐を感じた。だが鬼房はそういう古い価値観にただ漫然と甘え溺れている訳で
は決してない。己れを見つめる厳しい目を持つのと同時に、一方では時折妹の力を与え
て呉れる母や妻への深い感謝と愛情のまなざしを忘れない。
たらちねは日高見育ち蕗の薹
若しかして曙の精弥生妻
厳しくはあるが、それを補って余りある優しさが、誰もが認める鬼房の魅力なのではな
かろうか。
(阿部 菁女)