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 小熊座・月刊 
  


   2015 VOL.31  NO.358   俳句時評



      俳句甲子園の行方

                              
宇 井 十 間


  穂村弘によれば、表現には、シンパシー(共感)とワンダー(驚き)という二つの次元があ

 る。平たくいえば、ああそういうのあるよねえ、そうそうわかるわかる(シンパシー)という共

 感を誘う表現(の次元)と、わーそういう物の見方もあるんだあ(ワンダー)と驚かせてくれる

 表現(の次元)があるという事である。そして彼によれば、現代は明らかにシンパシーが優

 勢な時代である。見た事がないものや聞いた事がないものは、もはや人々の関心を引か

 ない。むしろ、自分と同じもの、同じ事を感じるだれかを求め、そのだれかと生活を共有す

 る事に価値を置くのが、共感優位の現代である。

  俳句に関していえば、この種の共感主義は、吟行句会という場で最も典型的に観察され

 る。多くの場合、吟行会は決して他の参加者を驚かせる場ではない。むしろ、ああそういう

 のあったよねえと共感しあい、種々の挨拶を交わしあう場である。

  1990年代のニューウェーブ短歌から現在の口語性俳句まで様々なジャンルに散見され

 る共感主義は、社会学的にみれば、終わらない日常(宮台真司)を生き抜くための知恵で

 あるのかもしれない。おそらくちょうどこの頃から、日常は決して終わらず、その外側に出

 る事もできないという特殊な感覚が様々なジャンルで顕著に出現しはじめた。時事的には

 オウム真理教の事件が起きたのもこの時期である。阪神淡路大震災から東日本大震災ま

 で、二つのカタストロフの意味するものは、実はそのようなカタストロフをも平板な挨拶のネ

 タにしてしまいかねない、ガンコな持続と終わらなさの時代の到来である。日常は、終わら

 ない。しかし、終わらない日常はキツイから、それをある種のユーモアと連帯によって生き

 抜こうというのである。(後述するように、それは新しい「社会性」の問題でもある。)

  むろん、終わらない日常など、実際にはありはしない。その外側を生きる事も、実は思い

 のほか簡単である。にも関らず、日本という制度の中に生きる限り、日常は決して終わらな

 い永遠としてそこにある。それ故、その内部では、連帯もユーモアも乾いた挨拶の交換も、

 執拗に永久に繰り返される。「俳句」という現象は、ある意味でこの終わらない永遠と共存

 する何かである。

  しかし、シンパシーという方法は俳句の日常的活動の中で遥か以前から実践されてきた

 ものであろう。というよりむしろ、俳句では、シンパシーに依存しない表現の方が例外的で

 はないか。山本健吉の純粋俳句論にしろ、草田男の第三存在にしろ、あるいは芭蕉の蕉

 風に至るまで、その背後には俳句表現の中に何とかしてワンダーを求めようとする心情が

 働いている。そしてそれ故に、それらの試行錯誤はつねに時代の少数派に止まらざるをえ

 ない。

  現代俳句における俳句甲子園のインパクトは広く大きく、その意義も多岐にわたるのだ

 ろうが、一つにはそれが、種々のワンダーを可能にする場であるという事にある。甲子園

 は、世代的にも(現役の俳人世代ではなく高校生が俳句の優劣を競う)空間的にも(最終

 日の出場校は大ホールのステージ上で試合をする)、日常的な共同体を離れた表現の場

 である。「俳句」そのものが終わらない永遠であったとしても、彼らにとっての俳句甲子園は

 確実に終わる。そして、大多数の出場者は、その後俳句を離れ、俳句に戻ってくる事はな

 い。終わらない日常を生きている終わらない俳句の作り手たち(専門俳人)にとって、終わ

 りを意識せざるをえない彼ら高校生の活動は新鮮なものであるに違いない。私は、彼らが

 俳句を捨てて、以後決してそれを顧みない事を願っている。その先に待っているのが、別

 の永遠であるかもしれないにしても、である。

  むろん個別の作品のレベルで見る限り、終わらない日常は、彼らの一見自由奔放に見え

 る俳句にも姿を見せている。スタイルの面から見れば、俳句甲子園の一つの明らかな特色

 は、頻繁に現れるその口語表現にある。そして口語的な表現は、一見きわめて同時代的

 で刹那的であるように見えながら、まさにそのために、終わらない永遠を映し出している。

 当然の事ながら、彼らもまた今の日常を生きているのである。

  むろん、「口語」俳句が俳句甲子園のマジョリティーを占めている訳ではないし、主題的に

 見ても、現代的な人間関係の劇に焦点をあてたものはさほど多くはない。そして、実をいう

 と、私がもっと興味をひかれるのは、そのような「社会性」のない俳句である。なぜなら、口

 語の時代を彩る「社会性」とそのシンパシーの構造から自由である事によって、はじめて別

 種の様々な社会性が視野に入ってくるからである。社会性は現在の生活だけにあるので

 なく、過去や未来や理想やそして遥かな外国にもある。ありていに言ってしまえば、それは

 他者の問題である。

  私は現代短歌の口語表現につねに関心をもっており、その表現的達成やその生き生き

 とした現代性に驚嘆するが、それと同時に、そこにある種の閉鎖性や息苦しさを感じてしま

 う。そして、この二つの事実は決して無関係ではない。


   生きている化石の呼吸夏霞         (弘前高校 白戸真裕子)


  団体決勝にも個人賞にも残らなかった高校の作品からあえて引いた。生きているはずの

 ない化石の呼吸に耳をすませるのは、作者の意識がたえず終わらない永遠の外側に逃れ

 ようとしているからであり、いま現在眼前にある光景にだけ囚われてはいないからである。


  いわゆる「口語体」と終わらない日常の共犯関係、あるいはそれと関連する「新しい社会

 性」の問題については稿を改めて述べる事になるだろうが、俳句甲子園についていえば、

 前述した二つの社会性の次元は、いつも複雑に競い合っているように思える。しかしいず

 れが優位になるとしても確かなのは、終わりを体験した世代の俳句は、終わりを知らない

 世代のそれとは、どこかで異なるものにならざるをえないだろうという事である。






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