鬼房の秀作を読む (54) 2015.vol.31 no.358
ものわかりよくて不実や泥鰌鍋 鬼房
『瀬頭』(平成四年刊)
佐藤鬼房の俳句には、名句の呼び声高い作品をはじめ、読むたびに深い感銘や強烈
な衝撃を新たにするものが数々あるのだが、その一方でやや距離感を感じてきた句も少
なくない。それは、俳句を社会や人生と照応するものとして詠みかつ読むということになじ
めないという、私の性向によるのだろう。
掲句は作者晩年の『瀬頭』の一句だから、さまざまな棘や骨っぽい殻を超越した境地で
の作品だろうが、それにしても、「不実」という言葉を俳句の中で見せられるとドキリとし、
生々しい他者批判を聞かされる気分にもなってくる。ものわかりが良くて不実な奴なら私
も何人も知っている。その通りだ、ということになるのだが、しかしこの句は、率直な感想
を表わした句という範囲を超えた、やはり得難い一句なのだ。
そのカギはもちろん「泥鰌鍋」にある。ここは泥鰌でなくてはならないし、泥鰌鍋でなくて
はならない。これがあってはじめて、「ものわかりよくて不実」が微苦笑のうちに融解して
いく。「泥鰌鍋」が、不実だとか虚実だとかという生硬な批評を吹き払って、主体の包容力
に大きくくるまれた、まぎれもない俳句一句に、いっぺんに仕立て上げている。たった一
語によって、俳句が一瞬のうちに成立することがあるということを、この句は教えてくれて
いるのだ。
(志賀 康 「LOTUS」)
「泥鰌鍋」は、開き泥鰌とささがき牛蒡を卵とじにして一人鍋として食膳に出したもので
柳川鍋という。ところで、所が変われば、生きた泥鰌をそのまま豆腐と鍋に入れて煮る調
理方法もあるそうだ。鍋の中の温度が上がるにつれて泥鰌がピチピチと豆腐の中に潜る
という残酷なレシピ。
元々、泥鰌は開き難いので丸のまま煮ていた、とある。
掲句を読むと、たまたま鬼房は生きたまま煮られた泥鰌を食べられた。そして、その食
後の感想が一句になったようだ。食したものの生きた泥鰌であったことに対する驚きと悔
いがよぎる一瞬。まさに知らぬが仏の気持が「不実」と表現された。本来なら触れ難いこ
とば「不実」一語をすんなり納める鬼房一流の俳句作法はさすがである。
日常生活の中の一景でも鬼房の生きものへの眼差しは優しい。それは、自然界と人間
との深いかかわりへの感謝と謙虚な心にほかならない。
句集『瀨頭』には、〈古草を毟るなさもしすぎるゆゑ〉 〈弥生満月羽根をほしがるもぐら
もち〉 〈羽抜鶏胸の熱くてうづくまる〉等、卑近な動物や植物と対峙された作品が数多い
ことも特徴の一つだ。就中、
長距離寝台列車のスパークを浴び白長須鯨
一句の壮大な生命感に圧倒された。ブルートレーンから、あの銀河鉄道をイメージする。
鬼房俳句の巾の広さと奥の深さに改めて感動させられた。
(上野まさい)
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