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 小熊座・月刊 
  


   2015 VOL.31  NO.359   俳句時評



      高校生と俳句

                              
矢 本 大 雪


  俳句には、高校生向けの「俳句甲子園」というイベントがあり、常に若者の新しい息吹を

 俳句そのものに取り込めるようになっている。と思っていた。しかし、その割にわが小熊座

 にも若いメンバーはそう入っては来ないし、日本の年金受給者の割合と同じくらいの比率

 で、俳句にも高齢化は進んでいる。ならば、俳句甲子園が果たしている役割とは、何なの

 だろう。

  まず身勝手(自分の組織の拡大を願うよう)な観点に立つのはやめて、俳句甲子園が果

 たしている役割を、できるだけ公正な目で見てゆこう。

 
○ 甲子園が始まる以前に比較して、圧倒的に俳句が高校生の間で、認知されてきた。実

 際、俳句甲子園以後の若い詠み手が増加し、俳句界をリードしつつある。商業誌でも、二

 十代前後の作家の作品が増加している。

 ○ 勉強が得意不得意にかかわらず、自分の特性が俳句にあるかもしれないと気づかさ

 れている。また、そこから発想を転じて、自分の中の可能性に目を向けることができた。

 ○ 句作、発表、講評という作業を通じて、連帯感を確かめられる。(意外と、俳句は座の

 文学と言われるように、仲間との共同作業的な一面がある)

 ○ 一年に一度、松山への旅行が可能かもしれない。

  などなどが、考えられる。

  さて、それでは、負の側面も見てみよう。

 ○ 俳句甲子園の勝者は全国で一校のみであり、あとは敗者としてのみ存在を許される。

 ○ よほどのことがないかぎり、よい指導者を持たずして予選突破は難しい。

 ○ そもそも、大会は題詠を競う形であり、大会の趣旨は何処にあるのか。勝ち負けをつ

 けることが、いいことなのか。

  確かに、各地で行われる俳句大会も、勝敗をつける形で行われており、そのことが多くの

 俳人を集客している。ならば、俳句甲子園の形式を利用すれば、我々の句も優劣をつけら

 れるということか。また、一句ずつを対象に優劣をつけ、最高の一句を選べるのだとしたら

 我々の日常の句はどんな意味を持つのか。予選の形式を参考にすれば、同じ題詠句を対

 象に、判定人は三人から五人、赤白の旗を持ち一句ずつの対戦句の判定を行う。同点の

 場合は、ディベートの評価になるが、圧倒的に作品の評価の比重が高い。この方法ならば

 判定人さえ見つかれば、どんな句にも優劣がつく。もちろん、題詠、雑詠さえもこだわらな

 い。

  俳句甲子園で、トップに立てるということは栄誉であろう。野球のように、ほかのスポーツ

 のように、賞状を受け取るときの高揚感は、経験のない私にもわかる気がする。ましてや、

 そのまま俳句を継続し続ければ、若くして将来を嘱望されることをも意味している。

  ここでわたしは一人の若き俳人を思い出してしまった。誰であろう、寺山修司である。

   ラグビーの頬傷ほてる海見ては

   暗室より水の音する母の情事

   逃亡や冬の鉛筆折れるまで

   かくれんぼ三つかぞえて冬となる


  知られるとおり、天才とも、単なる盗作家とも評価が分かれるのだが、私は早熟な天才に

 違いないと思っている。ただし、ナイーブなだけにとどまらない、図々しさをもって自己を伝

 説化しようとし過ぎた点はあるが。

  林桂の「早熟の設計―俳人寺山修司論」(俳句空間6)から引用する。「寺山修司の俳句

 を前にする時、高校生としては巧みすぎる、かといって老練な俳人の作品の前では幼い、

 その文体が気になるであろう。それを老練な俳人の文体感覚から幼いと言ってしまえば、

 もっとも簡単な問題解決であろう。いや、むしろ問題回避というべきであろう。また逆に、高

 校生なのだから、あるいは高校生にしては、という条件のもとに弁護にまわったとしても、

 それは同じレベルでの問題解決、あるいは回避にしかすぎないであろう。 (中略) 誤解を

 恐れずに言えば、俳人寺山修司は、俳句形式に苦しむ以前の存在であったに違いないの

 だ。寺山が新興俳句形式の俳句に興味を持ったということが、俳句を書く上で彼に俳句形

 式との葛藤をもたらしたというような関係になっていかないと考えるのは正しい理解のよう

 に思われる。彼の俳句を読むときにもたらされる安心感と信頼感は、形式を疑っているの

 でも葛藤しているのでもない、信じて書いていることに発するものである。若くして俳句を書

 き始めたものに必ず訪れる形式と作者の不調和が、寺山の作品には訪れていない。まさ

 しくそのことをもって、彼の才能を言うことも可能である。」

  これを踏まえて、今回の俳句甲子園の優勝校「開成高等学校」の決勝の作品を見てみよ

 う。

   
人一倍大きな声の生身魂         (兼題「生」)

   全身で生きてゐるなり天瓜粉

   踏切に立往生の神輿かな

  全句共に決勝を勝ちぬいた句である。高校生らしさをこれらの句に求めるのは、酷なこと

 なのか。高校生だって、そんなものを要求されるなら、それに応じた句を作ってやる。と息

 巻くかもしれない。また、それくらいのことはできる能力も備えていよう。しかし、先の寺山

 修司と比較すると……。

   
もしジャズが止めば凩ばかりの夜

   少年がナイフをみがく夜の蜘蛛

   威し銃その後にさむき谺なし


  これらの句は、確実に寺山が高校生の時に作られた句である。技巧の違いはあるだろ

 う。しかし、それだけではない。高校生の中身が違ってきていると、言い訳できない何かが

 寺山の句にはあった。俳句甲子園の句には見られない何かが。寺山修司は、これから先

 俳句甲子園の中から現れるのだろうか。





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