鬼房の秀作を読む (55) 2015.vol.31 no.359
夕鵙や遠きは遠く思ふのみ 鬼房
『何処へ』(昭和五十九年刊)
俳句は短く、その短さとどう和解するか(しないか)という態度の決定から、ほとんど全て
が始まる。つまり、形式に過剰な意味、ドラマ、音数、観念性を持ち込むこと(あるいは決し
て持ち込まないこと)は、作家の思想そのものなのだ。
そして、鬼房こそはは過剰さを思想とした作家であると、自分は理解していた。
過剰な語るべきものを形式において圧縮し、そのただならない熱量が言葉や観念に窯変
のような昇華をもたらす。それがこの人の方法だという印象を初期中期の代表作から得て
いたので、掲句の風姿には、予断を裏切られた。
〈遠き〉ものと自分の間には、再び触れることの叶わない隔絶がある。そのような人生の
普遍的真実への思いが〈夕鵙〉の遠く鋭くまた哀しい声に託されている。この完全に説明可
能で「お釣りなし」の観念あるいは心情には、予定調和のうらみがなしとはしない。
しかし、さらに作者に寄り添えば、この句は「語るべきものからの切迫の弱まり」それ自体
を、哀惜しているようでもある。形式を圧倒せんばかりだった野心のかすかな断念を響か
せつつ、作家が俳句と和解していく、晩年様式の始まりとして、記憶されるべき一句なのか
もしれない。
(上田 信治「里」「週刊俳句」「クプラス」)
空間的な距離、時間的な距離、心理的な距離―「遠さ」にも、様々な「遠さ」がある。物理
的には遠くても、近く感じる事もあるであろうし、すぐ近くにいても、果てしなく遠く感じること
もある。
ふるさとは、遠くにありて思うもの―そんな詩の一節の中の「遠さ」を思いながら、鵙と鶴
とは全く異なる鳥だけれど、〝夕鶴〟の物語が脳裡に蘇った。
人間である与ひょうに助けられた鶴は、その恩に報いるため人間の女性に姿を変え、一
緒に暮らすようになる。与ひょうの為に、自らの羽を抜いて織った織物が高価に売れた事
が逆に不幸を招いてしまう。金の亡者に変貌してしまった与ひょうを見て、おつうは、
「あんたが遠くなっていく。」
とつぶやく。
遠きは遠く思ふのみ、と繰り返しているうちに、〈夜桜や小人になれば死なずすむ〉の幻
想的な世界へ導かれていった。小人になれば、生贄になることもないのであろうか。
〝夕鶴〟のおつうは、与ひょうに鶴である姿を見られ、遠く空の彼方へと飛び去ってしま
う。その時与ひょうは激しい喪失感の中で「遠さ」を体感し、一方で本来の自分を取り戻し
たのかもしれない。自分というものも又遠くにある。遠くにある自分を求めて、人は歩いて
いくのよ、と誰かが言っていたような気がする。
(水月 りの)
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